文化ジャーナル(平成16年10月号)

2004年10月1日

文化ジャーナル12月号

『種村季弘先生のご冥福を祈ります

北島町立図書館・創世ホール 小西昌幸

ドイツ文学者の種村季弘(たねむらすえひろ)先生が、2004年8月29日にお亡くなりになった。71歳だった。残念でならない。先生は1998年3月15日に創世ホールでご講演下さった方であり(演題「昭和を駆け抜けた2人の異端~澁澤龍彦と土方巽」)、当館にはゆかりと恩義のある大切な方である。図書館では、追悼文、先生の著書、講演会開催時の拡大写真10点、当時の新聞記事、ご逝去を報道する新聞記事などを9月末迄掲示し、その思い出を偲んだ。

種村先生とお会いしたのは、全部で3回である。最初は98年2月23日で銀座の画廊春秋。2度目が同年3月14-15日徳島。3度目は99年1月9日中京大学アートギャラリー「C・スクエア」(名古屋市八事区)だった。哀悼の思いを込めて、先生との3度の出会いをメモしておこうと思う。

講演依頼で初めて電話をしたのは97年10月。夜の10時頃で、自宅からだった。私はこの夜推理小説研究家の中島河太郎先生にも『JU通信・復刻版』の解説原稿のことで初めて電話したのだ。種村先生も中島先生も優れた怪奇小説アンソロジーを編纂された方だ。その方面の文学が好きな私は、この夜偉大なアンソロジスト2人の声を連続で直接拝聴できた訳であり、とてつもない濃厚な体験となったのだった。中島先生、種村先生の順だったと思う。

講演会企画のことを話すと種村先生は、ちょうどその頃河出書房新社の『澁澤龍彦翻訳全集』が完結し、1月には同じ版元から『土方巽全集』も刊行されるからタイミングとしては面白いのではないか、大学の卒業行事などが重なっていなければだいじょうぶだろうという趣旨のことを述べられた。数日後、大学行事もクリアして、企画準備が正式スタートしたのだった。

98年2月23・24の両日、私は上京の機会を得た。23日はスケジュールが開いているので午前中に土方巽記念アスベスト館を表敬訪問しようと考えた。元藤アキ子さん(土方夫人)とも会えることになった。出発の前日22日に種村さんに電話し、上京する旨伝えると、息子が銀座で画廊をやっているからアスベスト館の後そちらにまわるように、静岡で開かれた「美術と舞踏の土方巽展」のビデオが参考になると思うからことづけておく、といわれた。ほどなくしてファクシミリで画廊春秋の地図が息子さんから送られてきた。

23日午後、私は午前中のアスベスト館訪問を終えて銀座に向かった。画廊春秋には種村先生の息子さんご夫妻がいた。画廊の入口には徳島県立近代美術館の「菊畑茂久馬展」のポスターが貼られているのが目を引いた。息子さんから、もうすぐ父が来ますといわれ、私は少しうろたえた。ビデオを受け取り、事務室でお話を伺っていると、息子さんは幼い頃に小川徹氏(故人、元『映画芸術』編集長)から焼きそばをごちそうになったことがあるということが分かった。種村先生は午後1時半頃、飄然と画廊春秋に登場した。

画廊春秋の事務室で、先生に私が趣味で作っているミニコミ『ハードスタッフ』11号を進呈した。種村さんは受け取ると本の頁を次々にめくってゆく。「板坂剛が書いてるんだねえ。彼は何をやっている人なの。ああそう。南原四郎って知ってる? 彼は島尾敏雄の遠縁なんだよ」。南原という人は『月光』とか『牧歌メロン』という不思議な雑誌をやっている人ですね、私は2冊ぐらい持っていますと私が言うと、種村さんは「君のミニコミはああいう感じなのかな。あれより、も少し硬派なのかな」とつぶやいた。私は感服した。初対面で、会って5分たつかたたないかの間に、私が10年かけて作ったミニコミの核心部分をわしづかみされた気がした。驚くべき洞察力だ。本を読む時の種村さんの視線が大変鋭かったことを印象深く記憶している。もう少しいることができるなら今日5時頃秋山祐徳太子がここにくるよ、といわれたが私は後の予定があったので後ろ髪を引かれる思いで画廊春秋を辞去した。この時の記念写真は数枚ある。1枚は9月の追悼展示にも使用した。

2度目は、講演会前日だった。午後1時40分着の列車で徳島駅に種村先生ご一行が降り立った。種村先生ご夫妻、内藤憲吾さん(元河出書房新社編集者、澁澤文庫本や全集の仕掛け人)という3人組だ。食事がまだなのでうどんかそばを食べたいなと種村さんがおっしゃって、駅ビルの食堂街のうどん店にお連れした。食事の後代金を私が払おうとすると夫人の薫さんが「小西さんいけません」といってご自分たちの分をお支払いになった(余談だが、以後私は、この店をよく利用するようになり、遠藤ミチロウ、日下三蔵、天瀬博康といった諸氏をお連れした)。澁澤龍子さん(澁澤龍彦夫人)は飛行機で徳島入りされ、県職員の平尾優二氏がお世話して下さる段取りだった。

3人をお連れして徳島駅前のアダムと島書房、鳴門市の大麻比古神社、鳴門市ドイツ館とまわり、北島町立図書館での会場下見の後、宿舎のホテル白水園にお連れした。夜は近くの大関という店で、種村先生を囲む会を開いた。ここに澁澤龍子さんと平尾氏が合流された。全11人が集まった。この中には毎日新聞滋賀支局記者の横田信行氏もいた(横田氏は元徳島支局の人)。

翌日は朝9時半に白水園にお迎えに行き、県立近代美術館の「菊畑茂久馬展」会場に向かった。種村さんから数日前にお電話をいただき、日本の現代美術に関する本を準備中であること、その中に菊畑さんも登場するので展覧会をみておきたいということだった。美術館の仲田学芸員にお知らせすると、菊畑さんは展覧会の最終日なので北島町には来れないが、午前中に美術館で会えるように段取りしていただけることになった。展覧会場には、種村さんの息子さんも姿を見せた。高速バスで来たらしい。2階の喫茶室で種村さん、菊畑さん、三木多聞さん(元徳島県立近代美術館館長)というビッグネームが顔を合わせるという非常に珍しい光景がこの日の朝、徳島の文化の森で実現したのだった。その写真も、追悼展示に使用した。

11時半に美術館を出発し北島町に向かった。種村さんは、共栄橋付近を通過しているとき「50人来たらいいんじゃないかな」とつぶやいた。が、もちろんそんなことはなく、会場には200人もの聴衆が詰め掛けたのだった(京都や岡山からも参加者があったのだ)。講演会の記録は北島CATVが約90分の番組を製作放映してくれたので、ほぼ全貌が残っている。

以下、こぼれ話を少し。講演会は午後2時半からだった。昼食を役場前の喫茶店で取っていただいた。1時半に図書館事務室に移動することになっていたのだが、種村さんは霊山寺(りょうぜんじ、四国八十八ヵ所一番札所)に行きたいとつぶやいた。往復の時間を考慮すると間に合わなくなるのでそれは実現しなかった。心残りだったらしく昨年寄稿いただいた「創世ホール通信」百号記念メッセージにそのことをお書きになっていた。

前日、ドイツ館から北島町に向かう車中での雑談。「徳島の若者の間では何が流行っているのか」というような話の流れから、私は徳島には暴走族が 多い気がするといった。種村「若者の娯楽が少ないのかな」、小西「そう かもしれません。私はどうも暴走族には共感できません。彼等が『暴走マガジン』とか『ヤンキータイムス』というようなミニコミでも作って《僕らはなぜ走るのか》という特集でも組んでくれたら多少は理解できるかもしれませんが」、種村「そんなもの作るぐらいなら走ったりしないよ」、小西「ごもっともです」。車中は爆笑に包まれた。

種村先生ご一行は講演会終了後、午後5時半の列車で愛媛松山市の道後温泉に向かった。澁澤龍子さんのご希望とのことだった。徳島駅には、少し際どい時刻に到着、握手をして改札に向かう種村先生たちを見送った。

最後にお会いしたのは99年1月9日。私の母校中京大学アートギャラリーでの「種村季弘・奇想の展覧会」のときだった。そのときのことは「中京大学同窓会通信」17号(99・03・19発行)に書いた。同通信には、ギャラリーで並んで写した種村先生との記念写真が掲載されている。

「創世ホール通信」は毎号先生にお送りしてきた。昨年、百号記念メッセージをお願いしたらすぐ玉稿が届いた。それは素晴らしい内容で2003年5月号(第百号)に謹んで掲載させていただいた。少し時間軸などで記憶違いがみられたが、私は手をつけなかった。誠に見事に構築された文章で加筆訂正の余地が寸分もなかったのだ。それが先生から頂戴した最後の文章だった。

近年私は、隔年で6月に静岡の伊東に行き、泊まりこみで自治労文芸コンクールの一次審査をする仕事をしている。東京経由で往復するので、列車は種村先生の住む湯河原を通るのだ。いつかお家に遊びに伺いますと、お伝えしたことがあったのだが、結局果たせなかった。そして一番札所・霊山寺をご案内することも──。今はただご冥福をお祈りし、この追悼文を天国の先生を捧げたいと思う。種村季弘先生、本当にありがとうございました。

【2004・10・05/文中一部敬称略/文責=創世ホール・小西昌幸】

3名の近影

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