文化ジャーナル(平成19年9月号)
文化ジャーナル9月号
『まんがNo.1』の時代(14)
長谷邦夫さん インタビュー
出■長谷邦夫(漫画家、大学講師、漫画論、栃木県在住)
席▲坂本秀童(徳島謄写印刷研究会代表、牟岐町出羽島在住)
者●小西昌幸(北島町立図書館・創世ホール企画広報担当)
小西●朝、帰宅されるとお風呂に入ったりするわけですか。
長谷■そうそう。着替えしたら一眠りしてね、二時頃に家を出て、またしばらく帰ってこないという。
坂本▲その他は、下落合と四谷を拠点に・・・・。
長谷■そうですね。四谷三丁目と下落合の間をまた行ったり来たりして、赤塚の打ち合わせがすんだら四谷三丁目の編集部、また録音スタジオ、それから対談の現場・・・・。ついでに新宿で酒飲んで、喫茶店の片隅でエッセイ原稿を書いたり。また翌日『まんがNo.1』をやってたんですね。だから体力がないと出来ないですよ。
小西●これは聞き洩らしの補足になるんですが、杉浦茂先生は毎号登場されて「ブリーフ補佐官」という書き下ろし新作も掲載されてるんですね。これはなかなか凄いことだと思います。
長谷■杉浦茂先生はね、そんなにお忙しい状況じゃないし。小さいパンフレットの『まんがNo.1』作ってたときに、僕が編集者として原稿依頼して「ミフネさん」という作品を描いてもらったので、今度はホンマ物の雑誌を出すわけだから「描いて下さい」とお願いしました。
小西●杉浦先生は、毎月届く『まんがNo.1』をご覧になってどんな感想を持たれたのでしょうねえ。
長谷■ねー(笑)。お聞きする時間が無くて残念でした。
小西●最後に休刊前後のことをもう少しお聞かせください。
長谷■自然休刊みたいなもんだよ。5号目ぐらいのときに僕は決心していたからね。これ以上迷惑をかけちゃいかんと思って、赤塚にはちゃんと言ってたから。「3号雑誌じゃみっともないから6号でやめよう」って言ってたの。
小西●赤字の金額というのは実際どのくらいだったんでしょうか。
長谷■1号250万円程度の赤字とすればね。その6号分・・・・・・。
坂本▲1千万円台ですか。
長谷■全然売れなかったわけじゃないし、ある程度回収してますから。まあいいんじゃないですか。そのくらいは俺が使ったっていいよ。赤塚は作品で何億も儲けたんだから。それに全身全霊でぶつかって、サポートしてきましたし・・・・。俺は全然何とも思ってませんね。当たり前。この編集作業はノーギャラで働いたんだもん。
赤塚不二夫の遊びをさ、やっぱり不二夫ちゃんを有名にするというか、こういうとんでもない人だって言うイメージを作ってたわけですからね。
坂本▲赤塚不二夫責任編集という建て前ですからね。
長谷■赤塚のセンスも物凄く入っているわけだし、そのセンスがなかったら実現してないわけですし。また人脈も根本は赤塚のものですよね。
小西●繰り返しになりますが、私はこの雑誌はリアルタイムでは読んでおりません。今回、長谷さんの講演会の準備過程で倉敷の友人から2冊見せられてびっくりしたのです。毎号二百頁以上で遊びに遊んでいる。漫画も、活字記事も、附録ソノシートも。私は、自主出版の世界の人間ですが、自分にとって大変な励みになるお仕事を拝見したと思っております。田舎で何かを続けてゆく元気を分けていただきました(笑)。
長谷■これは商業誌で娯楽誌ですからね。楽しく読んで笑ってもらう。読者の人に「楽しかったね。面白かったね」と言ってもらいたいわけですよね。そうすると普通の人に「楽しかったね」と言ってもらうためには、作っている方はその20倍くらい遊んでないと、楽しさって伝わらないよね。だからトコトン遊ぶ。赤塚先生の本が売れて、ある程度フジオプロがお金持ってたから、それで遊んで『まんがNo.1』を作った。
少し話がそれるかも知れないけど、当時のNo.1週刊誌『平凡パンチ』の話をしてもいいかな。
小西●どうぞ。ご存分に(笑)。
長谷■『平凡パンチ』が、なぜ売れたか。それは編集のスタッフが物凄く遊んでいたからですよ。一番かっこいい頃の『パンチ』のスタッフは、遊びもかっこよかった。酒もメシも銀座。ねえちゃんもキレイだ。
僕は編集部が締め切りで修羅場のときに、マンガカットを描くために呼ばれた経験がある。
「ちょっと編集部に来て」って、声がかかった。ウノカマキリさんと僕が呼ばれたの。「何時頃、行けばいい?」と聞くと「真夜中。なるべく遅い方がいい」。(一同笑)
こんな雑誌社も珍しいよね。今のかっこいいビルじゃないよ。古い木造かモルタルか分からない社屋の頃だったんだけど。で、真夜中に行ったらさ、編集部は修羅場だよ。すっごい。人で超満員ってムードなの。編集長はソファに寝てんだよね。その前をモデルが2、3人ぞろぞろ歩いたりして、マネージャーがついて売り込みに来てる。副編集長は何をやってるかというとトランプで博打やってるんだよ。で、別室では編集者が原稿を書いてるの。担当者に「仕事は何ですか」って聞くと「ちょっと待って」といわれて会議室に通された。「文字原稿見せて」って言うと「これから書きますから」。「えっ、原稿ないのに呼ん
でるの?」、「そうですよ」。(笑)誰が原稿を書くかといったら、編集スタッフね。
彼らがコラムやコントをどんどん書いていくのよ。出来上がった原稿を、博打やってるデスクの所に持ってくと「駄目だー」って破られて。残った原稿が、「これ、OKが出ました。描いてください」といってこちらにまわって来る。描く絵は小さな説明的な捨てカットなのに、こんな手間をかけていた。
小西●現場の熱気がよく伝わるエピソードです。凄いパワーですね。
長谷■朝4時までかかって、やっと簡単なコント頁が出来上がる。
せいぜい4頁だよね。それが出来る。笑いのネタが、すごく新鮮でしたね。
終わったら「タクシー呼んでますからご自宅へどうぞ」って、送り出されて。それでもう2、3日後には『パンチ』は店頭に並んでる。現在だったら、これは全て外注。編集プロダクションに1週前にやらせて楽々入稿でしょ。こんなのが「週刊」じゃ、世間のライブ感覚が伝わりません。
小西●最盛期の雑誌作りの世界の熱気がよく分かります。それが誌面に反映されて読む人たちに熱気が伝わるということですね。同種の熱気やパワーは、『まんがNo.1』にも確実に共通していたのだと思います。
長谷先生、3日間の徳島滞在、本当にお疲れ様でした。今日は、歴史に残る『まんがNo.1』についての貴重な証言をお聞かせいただいて、本当にありがとうございました。
長谷■イヤー、こんな事、誰も聞いてくれません!こっちの方がありがたいよ。〔完結〕
【一部敬称略/収録2001年3月5日徳島市・ふらんせ蔵/採録文責=小西昌幸】
▲ 『まんがNo.1』1973年4月号(休刊号)