文化ジャーナル(平成20年3月号)

2008年3月1日

文化ジャーナル3月号

辻真先の世界

70年代版「ゲゲゲの鬼太郎」公害三部作をめぐって 小西昌幸

アニメ版「ゲゲゲの鬼太郎」の第二シリーズ(全45話、1971年10月7日~1972年9月28日、フジテレビ系放映)で、辻真先さんは繰り返し公害問題をテーマに脚本を書いておられる。第8話「マンモスフラワー」、第29話「あかなめ」、第45話「原始さん」がそれである。このたび3月2日に当館で開催する辻真先先生の講演会「アニメ三国志~脚本執筆1500本・疾風怒濤の青春録」の準備過程で私は、ビデオを再見し大きな感銘を受けた。私の青春において佐々木守・実相寺昭雄の「ウルトラマン」「怪奇大作戦」などとともに「鬼太郎」もまた、精神の深い部分に大きな影響を及ぼしている。

放映当時から鬼太郎アニメは私にとって大変愛着深いものであり、再放送についても何度も見た(ビデオなどない時代、再放送は本当に貴重なものであり、人は愛着ある映像作品について録音したり、メモしたり、受けた感銘を心に刻むことで対峙してきたのである)。上記三本を仮に「公害三部作」と呼ぶことにして、辻真先脚本に関する考察を走り書きしておきたい。

「マンモスフラワー」(第8話、1971年11月25日放映)夢の島。広大なごみ捨て場に、ある日、マンモスフラワーが生える。それは大変巨大なもので首都圏の機能を麻痺させるほどだった。キザなスーツ姿の資本家が2人、鬼太郎に面会を申し入れ、非常に無礼な高慢な態度でマンモスフラワー退治を要請する。キッパリ断わる鬼太郎。するとたちまち毒づいて本性を現わす資本家。ぬりかべや一反もめんが二人を心底脅かして、懲らしめる。マンモスフラワーは2千本以上が東京中に繁殖する事態になった。政府はナパーム弾を投下するが効果はない。「マンモスフラワーを操っている妖怪は、あかなめだろう」と目玉のおやじが推理する。あかなめの所在を突き止めねばならない。きっと一番汚い場所にいるに違いない。ならばあそこだ。鬼太郎はモーターボートを運転し、東京湾のヘドロに満ちた海底に潜る。そしてついにあかなめと対峙する。あかなめは、一見マタギのような庶民的ないでたちの人間型妖怪である(大きさも人間並み)。海中であかなめと戦ううちに分かったことがあった。彼は本来清潔な妖怪であり、人間たちをきれいにするために垢をなめてやっていたのだ。「しかるに人間どもはなんだ。排気ガスにオキシダント、清潔であるべきアパートもゴミに埋もれさせている」という趣旨のことを述べ、深いため息をついて嘆くあかなめ。あかなめは鬼太郎にいう、「どうすれば花が枯れるか、分かるかの」。「ハイ」、答える鬼太郎。「さすがは鬼太郎、目玉おやじ殿によろしくな」、そういってあかなめは去る。街をきれいに清掃することでマンモスフラワーは消えていったのだった。

「あかなめ」(第29話、1972年4月20日放映)冒頭、決められた収集日ではないのに、ゴミを出すおばさんの情景などが描かれる。人間のマナー低下が描かれているのである。知能がついて、人間の言葉を話す知恵バエが登場する。ゴミが増えて食べる物に困らず、自分でもびっくりするほど進化したために言葉が話せるようになったのだという。「夢の島で、ある異変が起きている」と、鬼太郎たちに告げる知恵バエ。怪物が生まれているというのだ。その報告に引っ掛かりを感じる目玉おやじ。「ゴミから生まれた妖怪、それはおそらくあかなめだろう」と推測する。この回のあかなめは、ゴーレム・タイプで、体長数十メートルはあろうかという巨大な怪物である。「マンモスフラワー」のときのあかなめとは全く別系統の妖怪だ。戦車の砲撃も、火炎放射も全く受け付けず、怪物を倒すことはできない。鬼太郎たちはあかなめを説得しようとするが、不首尾に終わる。目玉おやじがあかなめの顔に乗り対話を試みる。あかなめは、次のような趣旨の発言をする。「手遅れだ。俺自身にももう止められない。全ては人間のせいだ。人間たちはこんな事態になる前に手を打つべきだったのだ」。そして、目玉おやじを自分の身体に同化させ吸収してしまう。ついに鬼太郎との対決。だが、鬼太郎も吸収されてしまった。テレビのアナウンス「絶望です。東京はもはや人間の住む所ではありません。ゴミ、ゴミ、ゴミ。ゴミのビルにゴミのタワー。ゴミ戦争で勝利を得た者、それは何とゴミだったのです」世界はとうとう大ピンチを迎えた。その時、知恵バエが登場。彼は古代植物の種子を持参し、これが鬼太郎を救う唯一の方法だという。その種子をあかなめに植え付けるとあかなめは大木になった。その木はどんどん成長し、ゴミの山だった東京を緑の街に変えてゆく。その情景に美しいオーケストラの音楽がかぶさる。やがてその木の実の中から鬼太郎と目玉おやじが降りてくる。アナウンサー「ありがとう鬼太郎さん、ありがとう鬼太郎さん。1千万都民に代わってお礼を申し上げます」。総理大臣から表彰状を受け取る鬼太郎。知恵バエは「きれいになった東京は俺の住む所ではない。人間ども、再び過ちを犯すなかれ~」といって去ってゆく。

「原始さん」(第45話、1972年8月10日放映)東京に巨大な原始人(原始さん)が出現する。豪快にのし歩き、笑いながら東京タワーを引っこ抜く。目玉おやじは、怪物の正体を調べるため妖怪図書館に行った。鬼太郎は、その結果を 待つ間にも街が破壊(自然化)されるので、「もうみていられない」といって原始さんとの対決にのぞむ。だが原始さんはべらぼうに手強い。鬼太郎の髪の毛針攻撃も息を吹きかけることで簡単にはたき落としてしまうのだ。鬼太郎がリモコン下駄で原始さんの目を狙おうとしたとき、目玉おやじが戻ってきた。目玉おやじは告げる。「人間に破壊された自然が原始さんを生み出したのだ。これも元はといえば人間が悪いのだ」。東京は緑の山になった。老人が言う、「これは昔の空気だ」。一般市民は原始さんの与えた自然に心が洗われたようだった。日本国政府と原始さんの間で協定がまとまる。《原始さんは山手線の内側を緑の森にしてもよい。ただし外側には手を出さないこと》という内容だ。人々はつかの間のユートピアを謳歌していたが、ひそかに原始さんを陥れようとする陰謀が邪悪な資本家たちの手で進められつつあった。悪徳企業の社長がねずみ男を使って原始さんをそそのかし、山手線の外側におびき寄せ、自衛隊の総攻撃に合わせようとする。心配して原始さんを説得する鬼太郎。このとき初めて原始さんは言葉を話す。「人間のことぐらいお見通しさ」。彼はすっかり人間に絶望したので、海に帰るというのだ。原始さんに総攻撃命令をかけようとする自衛隊司令官。鬼太郎は、司令官の口にリモコン操縦でチャンチャンコをねじ込み、原始さんへの攻撃を阻止した。再び東京は阿鼻叫喚渦巻く、喧噪の街に戻った。凄まじいラッシュアワーの情景、延々と渋滞が続く道路。互いに怒鳴りあう人々の声。鬼太郎がつぶやく、「人間はそれを復興と呼んだ。分かっちゃいないんだ」。ラストシーンでは原始さんの声が次のように響く。「いつかきっと人間は残らず後悔する。そのときになったら私は帰ってくるさ。手遅れにならなきゃいいが。ワハハハハ」。劇終。

2008年2月のある日、メモを取りながら3作品を連続鑑賞し、私は身震いせずにいられなかった。3作とも、環境問題・公害問題を扱い、人間の起こした過ちが原因で帝都に大異変が起こる。3作のラストはそれぞれ異なるパターンで描かれているが、実に寓意性に富んでいる。「マンモスフラワー」では人間が反省し街をきれいにして妖怪(あるいは大自然)の怒りはとりあえず矛を収めた形となった。「あかなめ」では人類を救ったのは鬼太郎ではなく、環境破壊が生み出したハエ(知恵バエ)だった。公害でハイパー進化を遂げたハエによって持ち込まれた、太古の植物の種子が人類を救う最後の切り札だったという、痛烈な皮肉をみよ。「原始さん」では人類に警告を発して、人が反省しない限り俺はいつかきっと戻ってくるぞといって本編が終わるのである。これは、かつて山田太一が「早春スケッチブック」の執筆動機として、ニーチェの次の言葉「いつかは自分自身をもはや軽蔑することのできないような、軽蔑すべき人間の時代がくるだろう」をモチーフにしたと述べた思想に通じるものではないか。あるいは映画「魔界転生」で「人の世が続く限り私はきっと帰ってくるぞ」と高笑いして異界に消える天草四郎を描いた深作欣二にも通じるのではないか。

そして我々が、上記3作を含む辻真先脚本作品に接して真に戦慄すべきことは、深いテーマを秘めながら、動画がどれも素晴らしい娯楽性を持ち、大人も子どもも楽しめる作品として描かれている点にある。私は少年の頃、それらに出会えたことを大切な宝物にしたい。そして、今職場でその生みの親である張本人・辻真先先生の講演会を企画開催できることを、心から誇りに思う。(2008年3月1日脱稿/一部敬称略/文責=創世ホール館長・小西昌幸

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