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文化ジャーナル(平成14年1月号)

文化ジャーナル1月号

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2001年12月7日、我が国を代表する挿絵画家の小松崎茂さんがお亡くなりになった。小松崎さんは、海野十三の小説「怪星ガン」の挿絵を担当された。当通信とゆかりのあるSF研究家/海野研究家の池田憲章氏は小松崎氏と深い交流があり、お通夜にも列席された。氏にお願いし追悼文をお書きいただいた。(編集部)

特別寄稿/小松崎茂先生の思い出●池田憲章

1978年、私は大学4年の時にフリ-編集者として仕事を始めた。写真ムック誌の特集本『ウルトラセブン』や『ウルトラマン』の編集をして、翌1979年には徳間書店からイギリスのテレビ人形劇のヒット作「サンダーバード」(1964~66)の特集本を出版した。そして、1980年その「サンダーバード」のプラモデルの箱絵(ボックス・アート)を描いていたイラストレーター小松崎茂先生を訪ねて、カラー・イラストとモノクロ・イラスト約15点を発注することになった。自分が編集の仕事をしてその後20年以上、こんなに緊張したことはなかった。小松崎茂先生の絵は、小学校に入る前から少年雑誌の口絵やイラストでおなじみで、大ファンの作家だったからだ。


小松崎茂先生(1915年生まれ)は、1938年に挿絵家としてデビュー。1940年頃から、科学雑誌『機械化』(山海堂出版)に未来メカとSF兵器のカラー・イラストをかきまくり、要塞を踏みつぶす100トン戦車、船舶から次々と海中に進んでいく水陸両用戦車、大型戦車を何台も積むマンモス輸送機、殺人光線戦車・・・・・・、それは日本のSFイラストの第1号ともいうべき存在だった。

戦後は、空飛ぶ円盤に乗るバグア彗星人の地球侵略と人類の科学攻防戦を描いたSF絵物語「地球SOS」を代表作に、1947年から約10年宇宙人や世界征服を狙う科学陰謀団とのメカニック戦が縦横に描かれる「第二の地球」、「21世紀人」、「海底王国」ほかのSF絵物語、「大平原児」、「ハリケーン・ハッチ」ほかの西部劇絵物語を量産、山川惣治(「少年王者」や「少年ケニア」のジャングル・ヒーロー物)、福島鉄次(SFファンタジー絵物語「砂漠 の魔王」、同作は宮崎駿監督も少年時代愛読)、永松健夫(「黄金バット」)たちと共に少年雑誌界に絵物語時代のブームを作りあげた。
手塚治虫や福井英一、武内つなよしや横山光輝たちが少年月刊誌や少年週刊誌に漫画時代を生む1955~57年以降、イラストと文章も組み合わせた絵物語をやめた小松崎茂先生は、カラーのイラストレーターとして、未来のSFメカ、宇宙メカニック、ゼロ戦やタイガー戦車、戦艦大和という軍事メカ、新幹線ひかり号やボーイング747、バチスカーフや超音速機コンコルドと いう最新メカ、アフリカの象やライオンという動物イラストと雑誌のトップ口絵、表紙を描き、少年読者をその迫力とリアルな描写力で圧倒した。
1957年からは、東宝の「ゴジラ」で知られる特撮監督・円谷英二からSFメカのデザインと完成画面のイメージ・ボードのアイデア協力を頼まれ、映画「地球防衛軍」、「宇宙大戦争」、「モスラ」、「ガス人間第1号」、「世界大戦争」、「海底軍艦」、「マタンゴ」、「宇宙大怪獣ドゴラ」、「怪獣大戦争」など10本以上にメカ・デザイン、モンスター・デザインを提供、40代の油ののった仕事で、世界SF映画史上に残るものだった。
1950年代末からは、プラモデルの箱絵(ボックスアート)で次々にメカニック・イラストを描き、田宮模型の戦車プラモ、日本模型の戦艦プラモ、今井科学のSFプラモ、バンダイの「仮面ライダー」や「マジンガーZ」など特撮/アニメのキャラクター・プラモのイラストを1970年代末まで、描きまくった。プラモデルの箱絵だけでも1000点近い数があり超人的な量のカラー・イラストを手がけた。


1980年にお会いしたとき、先生は66歳だった。私の描いたラフ絵(こういう絵を描いて欲しいという下絵)と参考写真を見て、お気に入りのコーヒーをコーヒー・メーカーから何杯もついで下さり、話題は世界情勢から飛行機、宇宙ロケットの話ととどまる所を知らず、圧倒されて、千葉県柏市の先生宅からフラフラで帰ってきた。完成した「サンダーバード」のイラストは何枚かの傑作があって、私の下絵は軽く吹き飛び、小松崎演出によって大活躍するサンダーバード・メカが画面の中で踊っていた。
その後、何十回と小松崎先生のお宅を訪ねた。先生のお弟子さんのイラストレーター根本圭助さんが企画を立ち上げた『小松崎茂の世界・ロマンとの遭遇』(国書刊行会、1990年3月)、学習研究社の2冊の『小松崎茂の世界』、人類文化社の『小松崎茂・絵物語の時代』と先生の画集の編集にも参加させてもらって、小松崎茂先生ご夫妻の人柄にも深く触れさせてもらった。
1999年11月におじゃました際、私が海野十三を研究していること、徳島の海野十三の会が準備を進めていた『海野十三メモリアル・ブック』に協力していることを話して、2回お会いしたという海野さんの話を聞かせてもらえないでしょうかとお話すると、「海野十三先生はすばらしい人だった」と遠くを見つめるように顔を上げて「原稿書くよ。何枚で書けばいいんだ」とその場で執筆を快諾して下さった。1か月後、原稿をいただくことができたのだった。同書は2000年5月に刊行、先生の原稿は巻頭に掲載された。
1995年、ご自宅が全焼して、80歳になろうかという老夫婦が焼け出された。火事見舞いに伺うとさすがの先生も意気消沈されていた。「俺ん家だけが焼けてよかった。ケガ人もいないしね」という先生のつぶやきが忘れられない。
火災保険で家をバリアフリーに段差なしで再建、「かあちゃんが足が悪いから。スキマッ風も入らないし、段もないし、かえって年寄りにはよかったかな」と、南千住生まれの東京下町っ子の小松崎先生は、ケロッと翌年には明るく笑い飛ばした。火事で焼け残った写真資料の陰干し、再整理が私や伊藤秀明など若い小松崎ファンの仕事になった。先生の指示を受けながら資料整理した数年が懐かしい。
2001年9月28日に「海底軍艦」のコメントをもらいに行って、新しい資料を神田の古本屋街で捜してくれと頼まれた。11月16日に緊急入院され、12月7日夜卒然として亡くなられた。87歳だった。葬儀で奥様の正子さんに、小松崎先生のお顔を見せていただいた。つやつやとした少年のような表情だった。9月にお持ちしたアメリカの馬の写真集を見て「いいねえー、この写真。すばらしいねえ」と少年のように喜ばれていた声を思いだした。
先生の晩年に親しくおつき合いいただけたのは、生涯の喜びだ。編集者として、これから1つでもいい仕事をして先生へのおかえしをしたいと思う。小松崎先生、本当に、本当にありがとうございました。

(2001年12月27日脱稿)

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