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文化ジャーナル(平成17年4月号)

文化ジャーナル4月号

「大盛況でした。九條今日子さん講演会」

催しをするといつも印象深い出来事が必ずある。2005年3月20日(日)の九條今日子さん講演会「夫・寺山修司を語る」も特別な思い出を作った。そのことを走り書きしておきたい。

九條今日子さんと白石征(しらいし・せい)さんは講演前日の3月19日午後の飛 行機で徳島入りされた。九條さんは今年70歳になるのだが、とてもそうは見えない(私の目ではどうみても50代)。若くてチャーミングな方だ。白石さんは渋くて落ち着きがあり、泰然とした穏やかな紳士である。自己紹介のとき、九條さんが笑いながら「小西さんにさんざんプレッシャーをかけられてもう大変ですよ。どうしようかしら」といった。

ご両名を空港到着ロビーで出迎えて、名刺交換などしていると、グラフィック・デザイナーの板東孝明氏が通った。板東氏は現在武蔵野美術大学の教授になっているので、毎週ご自宅のある徳島と東京を往復しているのだ。私の立ち位置の関係などから、タイミング的に声をかけることができなかったが、後で考えてみると板東氏は故・清原悦志さんのお弟子さんであり、『寺山修司の戯曲』の装丁に関わっている人なのだから、追いかけていって九條さん達にご紹介したら良かったと反省したことだった。

空港から図書館に直行し、図書館1階カウンター前の「寺山修司の幻想世界」の展示を見ていただいた。それから3階ホールに行き、お2人の座る位置や進行について細部の詰めを協議した。当館の元所長の小山建夫氏にはいつも講演会で音響照明関係の仕事をお願いしているのだが、この日も来ていただき協議に参加してもらった。舞台中央に机を2つ配置し、上手側(客席から向かって右)に白石さん、下手側(同左)に九條さんというポジション。それぞれワイヤレス・マイクを手に取ってお話いただくことになった。九條さんが「小西さん、椅子をもう1つ用意していただいていいかしら」というのでセットしていると「実はね、森崎偏陸(もりざき・へんりく)が明日ここに来るのよ。絶対内緒ですよ」、「え、ほんとですか。それは凄い。これは間違いなく創世ホールの歴史に残るような講演会になりますね」。森崎偏陸氏は《演劇実験室・天井桟敷》の重鎮の1人。ご実家が淡路なのだ。ビッグ・ネームの飛び入り参加の情報である。企画者冥利につきるとはこういうことをいうのだろう。無論一切秘密裡に進行しなければない。小西「偏陸さんをお迎えに 行かなくても大丈夫なんでしょうか」、九條「ヘイキ、ヘイキ。勝手に来るからほうっておけばいいのよ」、小西「ハ、ハイ。了解しました」。

4時頃、徳島市に向かった。車中、「邪宗門」上演のときのことや、山野浩一さんとの交流などを伺った。徳島大学常三島校舎のそばにある徳島古本流通センターにお連れした。このお店には過去の創世ホール講演会で杉浦康平さんや長谷邦夫さんをお連れしている。約30分の滞在で、ご両名とも数冊ずつ本を購入された。店長の小川さんも喜んでくださって、九條さん、白石さんのみならず、私まで記念サインを求められた。

19日の夜7時から徳島駅前の安い居酒屋さんでお2人を囲む会を催した。会費制で、徳島県立文学書道館職員2名、新聞記者2名、四国放送ディレクター1名、白石さんの今治西高時代の同窓生2名、その他1名、そして小西という顔ぶれ。四国放送のH氏は自己紹介で寺山さんの物まねをした。徳島新聞文化部のS記者が、何人かの前衛芸術家に共通してみられる土着的な物への志向性について興味深い話をしていた。

19日深夜、私は何とか講師紹介の原稿を書き上げた。やっと眠れる。

20日は午前9時半にお2人を迎えに行き、開催中の「マン・レイ展」を見るために徳島県立近代美術館に向かった。美術館の友井学芸員にお世話になった。九條さんも白石さんも熱心に鑑賞しておられた。

11時頃、美術館を撤収し、ホテルクレメント徳島へ。お2人はロビーで講演会進行の綿密な打ち合わせに入られた。ノートやメモを広げ、細部をつめる真剣勝負のプロの世界である。私は会場設営の最終点検があるので、午後1時に迎えにくることにして職場に戻った。司書の人の話では、朝から15分おきぐらいに講演会の問い合わせの電話があるという。会場の再点検中に演題垂らしが来ていないことに気付いた。納品の約束は昨日だったのだが──。看板屋さんに電話すると忘れてましたとのことで平身低頭である。もう、じたばたしても始まらない。一切装飾無しでゆくことがこの時点で確定。そうこうしている内に、キューテレビ(旧名北島ケーブルテレビ)のO氏から電話。連絡を忘れていたが、講演会を録画放映したいのですが良いでしょうか、との由。ホールとしては、願ってもないことなのだが、九條さん達のご承諾を真っ先にいただく必要がある。次回からはも少し早く打ち合わせさせてください、今後ともどーかよろしくお願いしますよ。そうO氏に私は言った。午後1時、ホテルクレメント徳島のロビーで九條さんと白石さんを拾って北島へ。ケーブルテレビの録画放映の件をお伝えし、ご了承いただいた。1時20分、楽屋口から控え室に直行。私も決戦モードに入った。

昨年(伊福部昭先生卒寿記念祭~2004年2月28・29日)は、北海道の勇崎哲史氏と山田雄司氏に駐車場整理をお願いしたのだが、今回は、妻の発案で我が家の息子2人に小遣い各1000円を渡して従事させた。

講演会には約250人が集まった。極めて濃厚・超充実・高密度の2時間 だった。私にとっては数年間にわたる構想と半年間の準備が、ここに今結実した訳だ。昨日今日のドタバタなども想起しつつ、客席に身を沈めお2人が繰り広げる生々しい対話を聞きながら、労苦が解放され自分の脳髄が感激に震えているのを実感。これこそ企画者にとって至福のひとときだ。

終盤で語られた映画の話題を2つメモしておこう(大意)。【「田園に死す」の恐山ロケのエピソード】ATGの映画は、制作費1500万円を折半して作るので、予算がない。俳優さんの出演交渉でもこれだけしかないのでそれでお願いします、といって依頼した。原田芳雄さんは、車で東北入りするのでガソリン代だけくださいといってくださった。カンヌ映画祭では好評だったが、政治力のようなものが働くところなのでグランプリ受賞はならなかった。日本での上映は苦戦して、寺山さんと九條さんが映画館で10枚ずつチケットを買って、道行く学生などに「面白いからみてくれ」といって配って歩いたりした。3週間の上映予定が2週間で打ち切られた。その後にかかったのがにっくき「エマニエル夫人」だった。今年二十三回忌だが世間がやっと追い付いてきたという気がしている。【「さらば箱舟」について】「田園に死す」の恐山ロケが寒くて大変だったので「さらば箱舟」は沖縄でロケをした。寺山さんの体調が悪くて、寝椅子を持ち込んでの撮影だった。だが、午前中は良くても午後から具合が悪くなって撮影ができなくなるなどしたので、1か月の撮影予定が3か月もかかった。そのため数千万円の赤字を抱えこんで今も返している。結局、寺山さんは映画の公開をみることなく他界された。

ロビーで販売した講演会資料類(図録、書籍、CD、ポストカード・セット)は約90点売れた。角川文庫の新装版『書を捨てよ、町へ出よう』と『寺山修司青春歌集』は各10冊を本屋さんに入れてもらったのだが、瞬く間に完売。もっと注文しておけば良かったか。図録の『寺山修司記念館(1)』は17冊、『寺山修司記念館(2)』は8冊売れた。これは妥当な線だろう。貴重な演劇や舞踏のポスターをA3サイズ・1頁1点収録した集成『ジャパン・アヴァンギャルド』(パルコ出版)は税込5040円なので2冊しか入れなかったのだがこれも完売。この本は絶対安い。5冊並べても良かったかもしれない。

講演会の概要は、徳島新聞文化面に2日にわたり掲載された(3月30~31日)。文化部S記者による入魂の採録記事だ。これは一大快挙だった。

今回の広報展開では、徳島新聞、朝日、毎日、読売、デイリースポーツなどにすべて写真入りで講演会の告知記事が掲載された。これは柴野拓美さん講演会に並ぶ痛快事だ。

最後に個人的なことを少々。いつも月末から月初めは「創世ホール通信」と『050』(徳島のタウン誌)の書評原稿で、私は喘いでいる。そんな中で3月1日にシンコー・ミュージックのロック雑誌『THE DIG(ザ・ディグ)』050』原稿が結局ずるずる遅れて、ジェスロ・タルの原稿締め切り(3月11日)とほぼ同時期になった。良く考えてみると、講演会の当日パンフレットの完全版下締め切りも全く同時期なのだった。すべてを同時進行で一挙に仕上げることになってしまい、追い込み終盤は連日早朝5時台に起きたりして何とか無事達成できた。今となっては良い思い出だ。

講演終了後ロビーはサインを求める人が列をなした。九條さんは最終便の飛行機で東京へ、白石さんは徳島駅からJRで今治に向かう。5時20分に図書館撤収。空港へ行く途中、松茂町の中華そば店で徳島ラーメンを食べていただいた(偏陸さんも同席)。空港で九條さんとお別れの挨拶をした。九條さんは微笑みながらいった。「小西さん、今夜はぐっすりお休み下さいね」。

ご支援いただいた全ての皆さんに感謝します。ありがとうございました。

【2005年4月10日脱稿 創世ホール企画広報担当・小西昌幸】

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