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文化ジャーナル(平成17年7月号)

文化ジャーナル7月号

我ら見はてぬ夢の丘
林直人氏の思い出に捧げる 小西昌幸

林直人氏は2年前2003年の7月25日に闘病の末、世を去った。42歳だった。私はこれから彼のことを書こうと思う。まず今年6月27日付け「徳島新聞」「読者の手紙」欄に掲載された私の文章を転載しておくことにする。


思い出が宿るこなきじじい

石像の前で

二〇〇一年八月、大阪。私は自分のミニコミ取材で林直人氏のインタビューをした。林氏は町田町蔵氏(筆名・町田康氏、芥川賞作家)の古い友人で、十代のとき、一緒にINUというグループをつくった関西パンクの源流的存在。自主レーベル・アルケミーレコードの専務だった経歴も持つ。 インタビューには林氏の親友北嶋建也氏(ロック歌手、ギタリスト)が 同席した。その席で二人から「山城町のこなきじじい石像建立に役立ててほしい」とカンパを授けられた。 同年秋、石像は無事完成。像の隣の石板には浄財を寄せた人々の名が刻まれ、林、北嶋、小西の名前もそこにある。 翌二〇〇二年秋、林、北嶋両氏がこなきじじい石像探訪のため徳島入りされた。二人が山城町の石像を見て大いに喜んだのはいうまでもない。温泉にも行った。 二〇〇三年七月、林氏はのどのがんで死んだ。享年四十二歳。あまりに早すぎる死だった。 今年七月九日、林氏の親友二人(北嶋氏とアルケミーレコード社長のJOJO広重氏)が亡き友をしのぶため、私の案内でこなきじじい石像を訪れることになっている。 私にとって、山城町の石像には悲しい悲しい思い出が宿っている。 (北島町、小西昌幸・49歳・北島町創世ホール館長)


林直人氏は、1961年3月3日、大阪に生まれた。彼は優れた歌手であり、美しいロックの佳曲をいくつも作った。疑う者はアルケミーレコードから追悼盤として2004年に発売されたAUSCHWITZ「RULE OF SPIRIT」を聞くがよい。

林氏との最初の交流は1980年前後のことだ。彼が作った「終末処理場」というLPを注文したら、「あなたのことは『ロック・マガジン』の文章などで知っています。最近はどういう動きをされていますか」という手紙が添えられていたのである。だが私が彼と直接会うのは、はるかに後のことだ。

初めて会ったのは94年8月27日だった。京都のライヴ・ハウス磔々(たくたく)でビートクレイジー結成15周年記念ライヴがあり、私は、それを見に行くことに決めたのだが、林氏に電話で打診すると彼も行くことを知り、ぜひ会いましょうということになった。私は趣味で『ハードスタッフ』というミニコミを作っている。どういうわけか応援してくださる人がけっこういる幸せな本なのだが、特集で関西パンクの黎明期にスポットを当てた詳細資料を掲載したことから、その方面の知人が多くなっていた。林氏は『Gスコープ』という大阪のミニコミ誌の連載でハードスタッフへのお礼を書いてくださったので、ぜひ会って挨拶しておこうと私は考えたのである。ライヴの後、近所の居酒屋に5人(林、小西のほかに高山謙一、西村明、山口藤次郎という顔ぶれ)で行って非常に楽しく話し込んだ。この時のことは写真入りで徳島のタウン誌『あわわ』94年10月号に書いた。私は、いつかこの人にインタビューをしたいと思った。ミニコミの特集経緯からも外せない。ただ入念な準備をしてから望まないと失礼になると思った。以後、時々会うようになり「創世ホール通信」も90年代末頃からずっとお送りした。

彼は読書家で、怪奇幻想文学に造詣が深かった。2000年に東京創元社から平井呈一『真夜中の檻』の文庫本が出た。その本はすぐ買っていたが、東京創元社の小浜徹也さん(徳島県出身)のご配慮で献本され、余分があったので林氏にプレゼントした。礼状の葉書に「『エイプリル・フール』は何度読んでも泣いてしまいます」と彼は書いていた。「エイプリル・フール」は英米怪奇小説翻訳の第一人者だった平井が生涯に2つだけ創作した怪奇小説の1つで、人妻の幽霊を愛した青年の純粋さが哀れで独特の深い余韻をもつ傑作だ。同作は70年代以降では紀田順一郎先生が荒俣宏氏と編集していた雑誌『幻想と怪奇』に再録された後、立風書房のアンソロジー『現代怪談集成』(中島河太郎・紀田順一郎編)に収められた。若い世代はそれらで平井作品を味わったのである。何度読んでも泣いてしまう、という文章から林氏がアンソロジー類も小まめに探求してきただろうことがうかがえた。

林氏が、がんになったことは彼の手紙で知った。2001年の初めだったと思う。大変ショックだった。早くインタビューをしておかないといけないという焦りの気持も芽生えた。滋賀の西村明氏に協力を求め、2001年8月と2003年4月の2回インタビューをした。林氏は澁澤龍彦さんと同じのどのがんだった。医師からいくつかの治療法を提示され、その中には声帯切除があった。だが、大変艶のある美しい声質を持ち優れた歌い手だった彼は、それを拒み、別の治療法を選んだ。それでも首の左右のリンパ節を切除したためにメスの跡が残り、そこが引きつったようになって、のどを締め付けたしわがれた声の質になってしまった。本当に気の毒だった。唾液腺も切除しているため、口中を潤す必要があり、いつもミネラル・ウォーターを持っていた。痛ましかったが、彼は同情を嫌ったに違いないから、私は努めて普通に接した。神様は本当に残酷だと歯ぎしりするような気持ちになった。

彼は発症してから、『アーサー・マッケン作品集成』を揃いで買ったといっていた。買うときは少し迷ったとも。同集成は平井呈一の全訳で、かつて牧神社から出ていた。今は沖積舎から刊行されている。

創世ホールの講演会シリーズは、第1回(開催日は1996年3月17日、年度としては1995年度)の講師が紀田順一郎先生で、演題は「書物と人生 辞典づくりに賭けた人々」だった。今年度(2005年度)は数えてちょうど10周年の節目に当たる。私はもう一度紀田先生にご登壇願おうと思った。テーマは、ずばり怪奇幻想文学紹介に打ち込んでこられた情熱の日々のクロニクルである。紀田先生は恐怖文学セミナーというサークルを大伴昌司氏、桂千穂氏と結成し、同人誌『ザ・ホラー』を発行、平井呈一氏にも取材している。荒俣宏氏と『幻想と怪奇』を編集、各種アンソロジーにも数多く関わってこられた。多くの挫折や労苦を味わいながら、全50巻を越す一大叢書《世界幻想文学大系》でやっと成功を収めるにいたるのである。日本では今日、ファンタジー文学が花開き隆盛を極めているが、その土壌は疑いなく紀田先生や平井さん、大伴さんたちが苦闘の中ではぐくみ、耕したものなのである。紀田先生は近年ご病気のため、講演会は減らしておられるが、創世ホールのオリジナル企画のために一肌ぬいでくださることになった。開催日時は10月30日午後2時半である。林直人氏は12歳のときに『幻想と怪奇』を知り、リアルタイムで全号(12冊)揃えて愛読していたという早熟な幻想文学愛好者だった。インタビューで立風書房のアンソロジー『現代怪奇小説集』(中島・紀田編)の話題になったときも、全3巻のカバーの色を彼はすらすら語ったから、よほど愛読したのに違いない。文学面においては完全に紀田・平井チルドレンと呼んでも良いような人だった。そんな青年が大阪のロックの世界にいたことを、私は紀田順一郎先生に直接お伝えしたいと思う。いわば、この企画は、私が林直人の魂に捧げるメモリアル・イベントという側面も持つのである。

林氏が北嶋建也氏と2002年に徳島に来て私の家に泊まったときのことや翌年1月に大阪クラブクアトロで北嶋さんと共にステージに立ったときのこと、葬儀の日のことは、残念ながらスペースの関係上、稿を改めざるを得ない。だが美川俊治さんのはからいでクアトロの楽屋に入れてもらったとき、林氏が前年暮れに急死した私の父のことで泣いてくれたことは書いておきたい。

念願のこなき石像探訪がこの7月9日に実現する。8日は、広重氏と北嶋+柿木義博デュオのライヴを徳島市内のアンカーべイで開く。林氏の古い友人・美川俊治さんも東京から来てくださる。氏は石像ツアーにも参加される。8日の客席には、ほぶらきんの青木ご夫妻も姿を見せてくださるはずだ。

私は近年ますますズボラになっているので、彼を特集するミニコミは、結局追悼号になり、その本はまだ完成していない。しっかり取り組んで良いものを作り、彼の霊前に捧げることを改めて約束しておきたい。

林直人さん。追悼特集の総タイトルをこの前やっと決めました。大好きだったアーサー・マッケン作品にちなんで「林直人の夢の丘」。これで行こうと思います。

(2005年7月2日脱稿 敬称一部略 文責=北島町創世ホール 小西昌幸)

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