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文化ジャーナル(平成18年3月号)

文化ジャーナル3月号

伊福部昭氏を悼む 木部与巴仁
立つ鳥はみずらに歌いて
天たかく舞わんとす
その声 人に似て耳に懐かし
温もりもまた 人に似る
鳥 消ゆ
再び会う日の来ぬを われは知る

2月8日、音楽家、伊福部昭氏が亡くなられた。多臓器不全と報じられたが、直接の死因は直腸癌とも聞く。検査入院で病院に入り、ご本人もご家族も、もう一度帰宅するつもりであったのに、そのまま帰らぬ人となった。

冒頭に掲げたのは、私の著書『伊福部昭・音楽家の誕生』の後書きに一部を記した歌の、全体である。伊福部氏のことを考える日々が続く中、氏から歌のレッスンを受ける夢を見た。そこで歌っていたのが、冒頭の曲なのだ。旋律は、今も記憶にある。全文を掲げることで、追悼詩の代わりとしたい。

創世ホールにて、伊福部昭氏の卒寿を祝う二日続きの会が催されたのは、 2004年の2月28日と29日である。私は初日の「伊福部昭・時代を超えた音 楽」で、氏に関する講演を行なった。二日目には、野坂惠子さんによる演奏会「伊福部昭の箏曲宇宙」が行なわれた。すでに2年前のことである。伊福部氏が亡くなったのは、あれから約2年の後だ。

逝去に先立つ2月5日。私は、長崎県諫早市で行なわれた演奏会「私たちの音を求めて」に出演した。自作詩の『夜が吊るした命』を、音楽家たちとの共演で朗読するためであったが、同じその舞台で、ヴァイオリンの戸塚ふみ代さんとピアノの酒井健吉氏によって、伊福部氏の『サハリン島先住民の三つの揺籃歌』が演奏された。戸塚さんは、私の講演会で、氏の『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』を弾いている。諫早での『三つの揺籃歌』は、私の知る限り、氏の生前に曲が演奏された最後の機会である。個人的な感慨だし、全くの偶然だが、さまざまな因縁が感じられてならない。

伊福部氏のことを、私たちはまだ、あまりわかっていないのではないかと思う。亡くなられて、ひと月と経っていない。この私など、逝去にともなう実感がわかず、悲しみすらないのだ。それは、さまざまな点で、伊福部氏の存在が大きかったことを意味するのだろう。これから先、明らかになってゆくことは、限りなくあると思う。

管弦楽曲に比して、あまり論じられることがないものの、伊福部氏の歌を、私は好んでいる。『オホーツクの海』と『交響頌偈「釈迦」』は、オーケストラとともに演奏される合唱曲で、スケールの大きさは伊福部氏ならではだ。『釈迦』は、私も合唱の一員として唄った経験があるから、それなりの実感を持っている。先住民族の詩や音楽に刺戟を受けて書かれた独唱曲、『ギリヤーク族の古き吟誦歌』『サハリン島先住民の三つの揺籃歌』『アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌』には、他の作曲家の追随を許さない、氏独自の世界がある。そうした中で、私がとりわけ興味を抱くのは、更科源蔵氏の詩をもとにした『オホーツクの海』『知床半島の漁夫の歌』『摩周湖』『青鷺』である。

更科氏は1904年の生まれであり、1914年生まれの伊福部氏に比べて10歳の年長だ。二人の交流は、1940年の札幌に始まったものと推測される。伊福部氏は、更科氏の詩を用いるときは必ず、1943年刊行の第二詩集『凍原の歌』から選んだ。理由のあることだろう。推測できる点は、私も『伊福部昭・時代を超えた音楽』に書いたが、すべてを明らかにできたとは思っていない。伊福部氏は音楽家であり、芸術としての詩や散文を書かない。しかしもしも筆をとったなら、更科氏のような世界を表わしたのではないか。更科氏の詩には、自分が感じる北海道の風景があり、北海道の心がある。おそらくは終生、そう思っていたに違いない。伊福部氏を知るには、更科氏についても知ろうとしなければならないと、私は思っている。

「・・・・・・氏の曲に顕著な鎮魂の気配について記す。芸術として鑑賞される以前の音楽は、宗教に必須の要素であった。物悲しく、気高く、しかし魂に強く響くもの。伊福部昭の音楽は、まさに現代の鎮魂曲であったと思う」

時事通信社のために書いた、伊福部氏追悼文の一節である。

氏の音楽活動は、もちろん戦前に始まる。その名が知られたのは、1935年、『日本狂詩曲』によってチェレプニン賞を受けたことによる。代表的管弦楽曲の『土俗的三連画』は1937年、『交響譚詩』は1943年に書かれている。どの曲にも氏の特徴が色濃く表われている。『交響譚詩』は、夭逝した次兄の勲氏を悼んで書かれたから、はっきり鎮魂曲といえるが、他の曲はどうなのか。特に、鎮魂とはうたっていないのだが。

伊福部氏は、民族に固有の音楽性を、自身の曲に採り入れようとした。『ギリヤーク族の古き吟誦歌』や『アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌』など、ストレートに民族の名が生かされた曲は、指摘するまでもないだろう。『日本狂詩曲』は、北海道に移住した人々によって催される祭と芸能に、『土俗的三連画』は、アイヌの人々の歌や踊りに取材している。『交響譚詩』作曲の背景には津軽地方のじょんがら節があり、後に野坂惠子さんが箏曲として演奏したように、日本人に親しい旋律と響きを有している。

最晩年の氏は、野坂さんのための箏曲『ラプソディー・シアンルルー』を書こうとしていた。氏が少年時代を過ごした十勝平野を、アイヌ民族はシアンルルーと呼ぶ。シアンルルーで過ごしたころ。それは伊福部氏にとって、アイヌの歌や踊り、日本人移住者の民謡、レコードで聴いた西洋音楽などを 通じて音楽を意識した、揺籃の時代であった。『ラプソディー・シアンル ルー』を通じ、結果的に最後に求めようとした世界が、氏の魂のよりどころだったのである。自ら行なおうとした、鎮魂といえるのではないか。

そうとばかりは断定できないことを承知で書くが、民族音楽や民族芸能に注目し、そこに共感する音楽を創ろうとする以上、程度の差はあっても鎮魂の要素が濃くなると、私は考えている。例えば祭とは、盆踊りに代表されるように、先祖の霊との交感を求めるものだ。演劇とは、この場にいない者、すなわち死者の振りをまねることから始まっている。現代の葬儀にも音楽はつきものだが、いにしえの儀式ではなおさら、音楽は死者の魂を鎮め、残された者の魂を鎮めるために、あるいは魂に活力を注ぎこむものとして認められていたのである。

伊福部氏の音楽に鎮魂の気配を感じる理由は、民族の音楽、伝統の音楽に立脚しようとする氏の姿勢に、すでに答えがある。付け加えるなら、日本を始め世界各地に多くの死者を出した第二次大戦後、伊福部氏による鎮魂の調べを聴けたことは、死者にとっても生者にとっても、よかったと思う。しかし、このような点も、今後の研究で追究されることであろう。

今はただ、伊福部氏の魂の安らかなることを祈っている。(2006・2・25)

きべ・よはに 作家 1958年愛媛県生。法政大学法学部政治学科卒。著作に『〔合本〕 伊福部昭・音楽家の誕生/伊福部昭・タプカーラの彼方へ』(本の風景社)、『伊福部 昭・時代を超えた音楽』(同)など。東京都在住。

http://www.kibegraphy.com/

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