HOME記事文化ジャーナル(平成18年7月号)

文化ジャーナル(平成18年7月号)

文化ジャーナル7月号

『まんがNo.1』の時代(1)

長谷邦夫さん インタビュー

出■長谷邦夫(漫画家、大学講師、漫画論、栃木県在住)

席▲坂本秀童(徳島謄写印刷研究会代表、牟岐町出羽島在住)

者●小西昌幸(北島町立図書館・創世ホール企画広報担当)


小西●長谷(ながたに)先生、昨日(2001年3月4日)の講演会(「漫画風雲録~トキワ荘物語」)では大変お世話になりました。今から 長谷先生に『まんがNo.1』のことについてお話を聞かせていただこうと思います。牟岐町の坂本秀童氏にもご同席いただいています。坂本さんは『しびれのスカタン』などの単行本をお持ちの長谷漫画愛好家で、講演会の関連展示でもお世話になりました。

 私は、講演会の準備過程で、倉敷市に住む友人の中西信一さんから、参考にしてくれということで『まんがNo.1』を2冊お送りいただきまして、つぶさに拝見する機会を得ました。とにかくそれを見てぶったまげたんです。これは当時のサブカルチャーの最先 端をいっていたのではないかと思いました。付録にソノシートを付けていたことなども気になります。今から根掘り葉掘りお聞きしたいと思っていますのでよろしくお願いいたします。まず、そもそもの創刊のいきさつについてお話ください。

長谷■何で本を作りたくなったかと言いますと、赤塚不二夫が最初にニューヨークへ1~2か月行ったことがあるんですね。ぼくは 同行してませんけど。そのときにニューヨークにオフィスがある有名なパロディ雑誌の『MAD(マッド)』編集部を訪ねて行ったわけです。

 『MAD』は、それ以前に田中一喜(たなか・いっき)さんという、当時小学館の『ボーイズライフ』の編集者だった人から現物を見せられ、パロディ雑誌としてアメリカでは凄い有名であると教えられていました。「こういう漫画も面白いんじゃないか」ということで僕と赤塚はその雑誌を色々参考にして、ナンセンス漫画なりパロディ漫画なりを『ボーイズライフ』のために書くということをちょっとやってたわけです。

 で赤塚は、ニューヨークでヒトコマ漫画修行をしていた森田拳次が紹介してくれて、『MAD』の編集部に直接行ったわけですね。そのときに赤塚は編集部を見てびっくりしたわけですよ。どういうことかというと、編集ルームは何と日本の漫画プロダクションと同じだった。二度目の訪問のときは、僕も同行しましたが、やはり驚きました。漫画家がそこで漫画を描いてるわけ。ということは『MAD』という本は漫画家が編集員で企画を立てて、その企画を自分たちで絵にして、それで『MAD』を作って出版して いるという不思議な会社。だから非常に小さな会社ですね。編集長や副編集長格のキャップ・クラスの人は個室を持っているわけですよ。アメリカ流のオフィスですよね。

 で、個室を覗きますとね。これが楽しいアトリエなんですよ。編集長自身も絵を描いているから、だからたくさん漫画が貼ってあってさあ、絵の具やなんか並んで編集長のオフィスとは思えない(笑)。凄く楽しくやってるわけよ。

 それでびっくりしてねえ。僕は日本漫画家協会のバッジをプレゼントしちゃったよ(笑)。当時は会員だったからね。何でバッジを提供したかというとね、そのデプシオという編集長は『MAD』のバッジを付けているのよ。それが欲しかった。

坂本▲ああ、交換ですか。

長谷■そう。ところが1つしかない。それ以上は無いんだ。議員バッジと同じだからね。

小西●バッジの余分は、作ってないんですね。

長谷■うん。「こればっかりは、あげられない」っていわれてねえ(爆笑)。どうしても欲しかったんだけど(笑)。そういう楽しい場所だったんで、じゃあ俺たちもそういう編集部作って自分たちで漫画を描いてね、雑誌を作ったらこんな面白いことはないじ ゃないかと。「同人雑誌の延長で金儲けができる!」。そういう 夢を赤塚と二人で抱いた。

 だけどね、出版をするということについてはアマチュアですからね。肉筆同人誌しか作ってないし(笑)、出版のシステムを全く知らないんですから。それで矢崎泰久さんという『話の特集』を出しておられる方に赤塚が相談して、矢崎さんの父上の会社・日 本社を紹介してもらった。それからスタートしたんです。

小西●『MAD』編集部訪問はいつ頃のことですか。最初の赤塚さん単独のときと、お二人で行かれたとき、それぞれの時期がお分かりになれば、ご教示ください。

長谷■1969年頃ですね。ぼくが同行したのは71年の冬です。

坂本▲『MAD』の編集部での編集進行のやり方はどうだったんでしょう。

長谷■そういう現場は見せてもらってないけど、チーフ・スタッフは会社員みたいに来てたですね。その中核連中4、5人がプランを立ててテーマを作ってやっていたと思う。

 やっぱりパロディ雑誌だからライターは、いるんですよ。テーマが複雑になると、色々凝った文章が必要になりますよね。それは社外専任ライターに発注していたみたい。漫画家がライターに原稿を発注してるってことになります。

「スパイ対スパイ」みたいにサイレントの漫画もありました。あれはどうなのって聞いたら、「スパイ対スパイ」の作者のことを「あいつは英語がしゃべれない。だから、サイレント漫画にしてある」っていうのよ(一同爆笑)。「スパイ対スパイ」っていうのはパロディではなくナンセンス漫画なんだよね。作者はプエルトリコ人とかでした。アメリカは英語しゃべれない奴も多いんだから、その場合はサイレント漫画を描けばいいという発想でしょう。『MAD』はそういう人も参加していた非常にユニークな本だよね。隔月で出ていて、全盛期は二百万部かな。

小西●凄いですね。

長谷■年に2回増刊号が出て、その増刊号にナンセンス・レコードの付録が付いていた。

坂本・小西▲なるほど。

長谷■僕は付録のレコードの現物は見ることは出来なかったけど、LPになった物があるんですよ。音楽じゃなくて、自分達をパロッたサウンドなんですよ。くしゃみだけの自己紹介とか、メロディーに合わせてゲップだけで歌ったものとか。《『MAD』の編集会議》ってのもあるんだよ。これは全員が編集長をけなす会議だった。

小西●それはよい刺激を受けられたでしょうねえ。(次号に続く)

【一部敬称略/収録=2001年3月5日 徳島市・ふらんせ蔵/採録文責=小西昌幸】

長谷邦夫 ながたに・くにお 漫画家。大学講師。1937(昭和12)年4月7日東京都生まれ。トキワ荘メンバーの1人。1958年から貸本漫画を多数描き、その後トキワ荘グループのアニメ会社スタジオ・ゼロや赤塚不二夫のフジオ・プロで活動。70年代に「バカ式」等のパロディ漫画を発表する傍ら赤塚のアイデア・ブレーン、ゴースト・ライターを長年務めた。92年フジオ・プロ退社。近年は大学・専門学校で「漫画論」を講義。『赤塚不二夫 天才ニャロメ伝』『漫画に愛を叫んだ男たち』『漫画の構造学』『パロディ漫画大全』など著書多数。栃木県在住。2001年に創世ホールで講演し好評を博した。

長谷先生近影

カテゴリー