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文化ジャーナル(平成18年8月号)

文化ジャーナル8月号

『まんがNo.1』の時代(2)

長谷邦夫さん インタビュー

出■長谷邦夫(漫画家、大学講師、漫画論、栃木県在住)

席▲坂本秀童(徳島謄写印刷研究会代表、牟岐町出羽島在住)

者●小西昌幸(北島町立図書館・創世ホール企画広報担当)


 

長谷■赤塚が『MAD(マッド)』の付録のパロディ・レコードを聞いてねえ、「おい長谷、ゲップのレコードみたいなやつ、俺はどうしても作りたい」と。雑誌を出すと同時に、付録にソノシート付けようと。だからもう丸ごと『MAD』の思想に乗っかってるんですね。出たものは違ったけど。

小西●版元として日本社を紹介されて、実際に本としての形になるためには当然準備期間が必要だったと思います。

創刊号が1972年の11月号なんですが、矢崎さんに赤塚さんが相談された時期は?

長谷■正確には覚えていないけど、半年ぐらい前じゃないかな。意外と急発進ですからね。赤塚はやりたいっていえばすぐやる方だから。でも矢崎さんが「『話の特集』ではお金が無いし、出せない」と。で、赤塚が「フジオ・プロが金を出す」といった。「それじゃあ俺の親父の日本社が取次流通用の口座を持っているから、台帳見れば空いてる口座がある筈だ」と。エロ本の台帳だよね、そこは(笑)。エロ実話雑誌のコードなんだ。

『話の特集』だってそう。『話の特集』って変なタイトルでしょ、当時の雑誌としては。あれは本来「エロ話の特集」なんだよ。

ドラ息子の矢崎泰久のために、父親が「お前にはこのタイトルと口座やるから日本社から出ていけ」って勘当されたんだよね。本人がそう言ってたから。そういう事情があって、「だけど、ま、大人になったわけだから親父とは仲良くなりつつあるし、たぶん赤塚さん大丈夫だよ」って(笑)いうことでね。

日本社の方は、弟さんの泰夫さんが実質仕切っていたから、「泰夫のところで販売させるから、編集部は別に赤塚さんが作ればいい」と親父さんが言ってくれました。

それで、編集が終わったら凸版が印刷し、出来上がった本を日本社に納入して、全国配本すると。それだったらやれるだろう、じゃあやろう、ということになった。

すぐ四谷三丁目の交差点のそばの民間アパートを借りて編集部にして、企画会議をやろうというわけですよ。企画会議ったって僕と赤塚と矢崎泰久と3人だけだけど。

小西●赤塚さんは当時たくさん連載を抱えておられたと思います。そうなると実務の一切合財が長谷さんにのしかかってきて、実質編集長として実務全般をされたと思うのですが、表紙に横尾忠則さんとか、ソノシートで三上寛さんにご登場願おうとか、それらのアイデアはどなたの発案ですか。長谷カラーが濃厚ですが。

長谷■殆ど僕だったと思うんだけども、もちろん企画会議はやっていますから。

創刊するにあたっては、「執筆者にアピールするために、刊行直前に24時間パーティをやろう」って赤塚が言い出した。彼はパーティ好きだからね。本出すよりパーティ・宴会が好きなんですから(笑)。

矢崎泰久は酒飲まないから、興味ないんだけども。「旗揚げ公演だからやろう」ってね。赤坂にあったホテルニュージャパンの一部屋を借りたの。あそこは中見たら、連れ込み旅館と同じだよね、殆ど。だから一番大きい普通の和室を借りたんですよ。あれはニュージャパンのスペシャル・ルームだろうかなあ。ちゃんと障子がついてね、お蒲団が2つ並べてあってね、いつでも寝られるようになってるんだ(一同爆笑)。だから編集員に参加することになってた古屋信子さんという若い女性を呼んで、「ちょっとお蒲団に入って練習してみる?」なんてバカなこといって(笑)。

24時間借りっぱなしにして、昼前後から始まって翌日の昼までどうぞいつでもいらして下さい。お酒だけは用意しておきます、後はろくなものはありません、そういう回状をまわしました。

壁に、模造紙を3~4枚貼っておきましてね、「来た方で『まんがNo.1』に書いてみたい企画があったら、勝手に書き込んで下さい」という趣旨の落書き用の壁を作った。それがお披露目のパーティだったですね。

一番最初に来た人誰だったと思う?『まんがNo.1』に、ナンバー・ワンに来た人(笑)

小西●森田拳次さん?

長谷■マンガ家じゃない(笑)。マンガ家は来ないんだよ(笑)。

坂本▲平岡正明さんとか?

長谷■もっと有名な方です。

小西●うー、難しい。平井和正さんとか星新一さんあたりですか?

長谷■違う違う。星さんは来たかったんだよ。電話がかかってきて。

来たかったのに来なかった。その理由は後で言いますけど。

一番最初に来た人はね、植草甚一先生。

坂本・小西▲へえー。

長谷■植草先生、ちょっと体調が悪かった頃なんだけど、でも女性がご一緒だったな。この日はそんなに体調も悪くないから大丈夫だって。

僕と赤塚がこれから始まるからニュージャパン行かなくっちゃて、行ったら植草先生、もうみえてるんだよ。「うわー先生ー!」ってもうびっくりして。

小西●植草さんにしたら、いよいよ日本でも『MAD』のようなものが出るのかっていう、ある種の期待感があったのではないでしょうか。

長谷■そういう好奇心はあったでしょうね。原稿はとうとう書いていただけなかったけれども。本当、書いて欲しかったよね。いつか企画を立てて先生のところに行きたいなと思ったんだけど、まずはマンガとイラストレーションで本の形にしないとどうしようもないんで。

小西●案内状は多くの方々にお出しになったのですか。

長谷■そうですね。案内状は赤塚の個人的なお知り合いと『話の特集』の関係とか、僕の関係もありましたからね。だから来た人は、漫画家が殆どいないんだよ(笑)。小林信彦さんが来たな。

和田誠さんが来たということは横尾忠則さんも来るし、みたいなね。『話の特集』に関係していたデザイナーの方なんか、新人の方が多いから、この雑誌に登場したらいいんじゃないかということも含めて、みえてたね。

僕はSF関係ぜひと思ってたから、星新一先生にも声をかけていた。(次号に続く)

【一部敬称略/収録=2001年3月5日 徳島市・ふらんせ蔵/採録文責=小西昌幸】

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