HOME記事文化ジャーナル(平成20年9月号)

文化ジャーナル(平成20年9月号)

文化ジャーナル9月号

大伴昌司氏ご母堂・四至本アイさんに聞く(1)

★四至本アイ(ししもと・あい 大伴昌司氏ご母堂)

▼池田憲章(いけだ・のりあき SF特撮研究家)

●小西昌幸(創世ホール)

小西●徳島に住む私のような者にとって、四至本アイさんのお話を聞く機会は、なかなかございません。それで今日は、正式にインタビュー取材をお願いしました。私がお会いするのは今日が三度目です。最初が竹内博さんにお連れいただいて、四至本さんのご自宅で。二度目は、紀田順一郎先生と池田憲章さんと私とで、アイさんを囲んでこのホテルパシフィックで食事会をして、和やかなひと時を過ごしました。大変良い思い出になっています。

その後も、「小西さん、東京に来るときは連絡してね、池田さんも一緒にお会いしたいわ」、というお話を何度もいただいておりまして、やっと機会を得られまして、実現しました。

四至本さんと徳島の関わりを、以前お教えいただいたことがありまして、このインタビューではそこを重点的にお聞きしようと考えています。それらは一般の雑誌などには、まず掲載されないと思うからです。その前に、基本的な事柄をお聞かせください。四至本さんのお生まれはどちらですか。

四至本★福島県、現在の東白川郡塙(はなわ)町です。

小西●生年月日もご教示ください。

四至本★1910年12月11日。明治43年です。

小西●ということは、満年齢でいいますと??。

四至本★97歳と7か月です。

小西●四至本アイさんのお名前のことなんですが、カタカナで「アイ」と書くのが住民票などでの正しい表記ですね。

四至本★はい。アイが戸籍名です。

小西●いっとき、愛子という表記の記事もよく見かけましたが、愛子という通称を用いていたことがあったということですね。

旦那様の四至本八郎さんは、著名な国際ジャーナリストだったとお聞きしております。お二人のなれそめを教えていただけますか。

四至本★(笑)ただ知り合っただけなんですよ。共通のお友達のうちで。向こうも独身だったし、こっちも。(私も)生意気になってたんですよ割合と。知名の方にいろいろとお会いしている時期でしたから。それで、やはりお話の合う人の方がいいと思いまして。年がうんと違うけど、一緒になりました。19歳違いますから。

小西●アイさんは通信社の記者をされていたそうですね。

四至本★婦女通信社です。

小西●入られたのは、おいくつのときですか?

四至本★19歳ぐらいですね。

小西●そういう業界に進もうと思われた動機は?

四至本★前から文学少女でしたから。本を読むのが好きでしたから。

小西●文筆関係のお仕事で生活が出来るようにというようなお考えを持っておられたのですか。

四至本★そういうことでもなくて、母が何もしなくて平凡なままで終わりましたので、私は何かしようという気持ちだっただけなんです。

小西●八郎さんとお知り合いになったときは、おいくつ頃ですか?

四至本★24歳ぐらいです。

小西●知り合ってからゴールインまでは早かったですか?

四至本★そうですね。前々から名前は知っていましたし、わりと早かったですね。親が「早く誰かと結婚しろ」とうるさいから、したようなものです。

小西●八郎さんは国際ジャーナリストと呼ばれています。お仕事の内容は? 簡単にまとめられるものではないかも知れませんが。

四至本★アメリカから帰ってきまして、あちらの本を書いたりしていましたけどね。当時は今のように海外に渡航する人も少なかったし、そういう人材がいないとみえまして、何かお役所で海外に用事があるようなときはお声がかかったわけですよ。そして、私が感心していますのは、その頃のお役所というのは、今よりもずいぶん開けていると思いますよ。在野の人をそうやって重要な仕事に登用しても、お役所内で不満の声は聞かれませんでしたから。今なら「何も外部の者を使わなくとも」ということになるんだと思いますよ。

小西●今だと考えられないですよねー。

四至本★それから商工省。メキシコ貿易斡旋所長は商工省の仕事でした。陸軍省ではビルマ施政官。

小西●八郎さんは、外務省の人ではないんですよね。

四至本★全然違うのに。何か事件があると声がかかって、最後は吉田茂氏から頼まれて、日本の国のためにということで、平和条約の下交渉のために、ワシントンに半年間おりました。そのときにご一緒していただいたのが副総理の植原悦二郎さんです。植原さんは米国の大学を出ておりますから、英語がペラペラで、戦前からアメリカの高官にたくさん知り合いがおりましたから。それからうちは民間人やマスコミ方面などをたくさん知っておりますので、そういう方面で、2人を選んだんじゃないでしょうか。でもそのときはね、進駐軍から出たドルの費用が25ドルです。それ以上は出せないといわれて。でもそれではホテル代にもならない。後で奥様に聞きましたら植原先生は、米国国務省から迎えの車が来るのに安ホテルにはいられないということで、証券を全部売り払ってドルに換えたんだそうです。八郎もお金がありませんから、私の宝石なんかを売り、100ドルを作りました。それから進駐軍の人がよく出入りする喫茶店にいって100ドルに換えて、あと300ドルはニコンの会社に私の弟がおりましたからニコンの写真機2台を買いまして、それをシアトルで持ち込むとすぐ買い手がついて1台150ドルで売れたんです。そうやって500ドルを作りました。今でしたら考えられない。

小西●大変なご苦労をされたんですねえ。(次号に続く)

〔一部敬称略/収録:2008年6月13日、ホテルパシフィック東京/採録文責:小西昌幸〕


【インタビュー補足】今号から数回にわたって大伴昌司氏(編集者、SF評論家。1973年1月、36歳で逝去)の母上である四至本アイさんのインタビューをお届けする◎アイさん(1910-)と八郎氏(1891-1979)について、荒俣宏氏は『奇っ怪紳士録』(平凡社)で次のようにお書きになっている。《(アイさんもまた、)八郎に劣らぬ才女であり、社会運動や婦人運動に参加、当時の女流文化人多数と交友関係を持ち、戦後は『日米時事新聞』に参与して記事執筆も手がけた》。八郎氏については次のとおり。《四至本八郎氏は、アメリカ通のジャーナリストとして活発な活動を見せた著名人だった。在野の人物だったが、政府とも太いパイプを持ち、しばしば公務で海外に飛ぶという「民間外交官」でもあった。例えば八郎氏は、昭和11年に、日華事変による日米関係悪化を修復するため、「国民使節」としてアメリカに派遣されている。後に首相となった芦田均と一緒であった。また戦中には施政官としてビルマへおもむき、同国の蔵相(のち駐日ビルマ大使)と親交を結んでいる。さらに戦後は、講和の下交渉を吉田茂に依頼され、「国のため」にワシントンへ飛んだ。著書に『テクノクラシー』(昭和八年)、『頭脳トラスト』(同)などがある》

三者近影

写真は08年6月13日、品川のホテルパシフィック東京3階喫茶コーナーで撮影。

左から池田、四至本、小西。

カテゴリー

このページの
先頭へ