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文化ジャーナル(平成20年10月号)

文化ジャーナル10月号

大伴昌司氏ご母堂・四至本アイさんに聞く(2)

★四至本アイ(ししもと・あい 大伴昌司氏ご母堂)

▼池田憲章(いけだ・のりあき SF特撮研究家)

●小西昌幸(創世ホール)

四至本★今でしたら、政治家お金儲かっちゃうでしょう。海外に交渉に行ったりしたらお金も残るでしょう。そんなことだったんですよ。昔の政治家って偉いです。

小西●そうですねえ。まして八郎さんは民間人なんですからねえ。

四至本★その頃ね、500ドルあったら荻窪あたりに土地付の家が買えたんですよ。

小西●アイさんのご兄弟は?

四至本★3人ですが、妹は30代で亡くなりました。弟は健在です。荒川龍彦といいます。なんか弟は「ニコンの神様」って呼ばれているんだって。

池田▼エッ!

四至本★この間もオランダから雑誌社が取材にきてたわよ。それからアメリカの雑誌にいっぱい出ていますよ。『アサヒカメラ』の人がね「荒川さんは外国で有名ですね」っておっしゃって。弟に会うために観光団を組織してきてましたよ。写真会館でみんなにお話するの。

池田▼ニコンの歴史を本当によく調べてらっしゃいますからねえ。村山実さんがね「あの人が大伴さんのおじさんなのか」って、びっくりされていましたからねえ。

小西●弟さんはおいくつですか。

四至本★91歳です。

小西●大伴昌司さんのエピソードで大変有名なのは、幼い頃にメキシコで過ごされたことですね。当時の写真などもよく出ていますね。大伴昌司さんがお生まれになったのは1936年ですか。

四至本★2月3日です。昭和11年ですね。

小西●それで、四至本家はメキシコには1938(昭和13)年にご家族で行ってらっしゃいますから、昌司さんはまだ2歳の赤ちゃんですよね。メキシコには、商工省の依頼で行き、現地で四至本八郎さんはメキシコ貿易斡旋所長として赴任されています。アイさんが、海外に出られたのはそのときが初めてですか? 不安などはなかったですか?

四至本★そうですねえ。あまり好きじゃないですから。

小西●交通手段は、長時間かけた船旅なんでしょう?

四至本★船です。サンフランシスコまで当時は14日間。ハワイまで7日間。それが標準でしたから。それからメキシコまでまた船で行って。港から上がって汽車で20時間以上。ロサンジェルスから根飛行機だと30分でメキシコシティに着くんだけど、あたし飛行機は嫌いだから。八郎だけ先にロスから飛行機で行っちゃって、私はメキシコの港から汽車に乗って、メキシコシティに入りましたけど。

小西●もちろん2歳の昌司さんをお連れになっているわけですね。

四至本★そうです。

小西●大変だったでしょうねえ。英語を話すことについては不安などなかったですか?

四至本★いえ、私、あまり出来ない。だけど亭主がいるから。

小西●『OHの肖像』という本を拝見しますと、メキシコの外交官の方々と並んだ写真なども載っていますね。

四至本★それが仕事なんですよ。外貨獲得の目的で行ってますから、日本の宣伝をするのが仕事なんですよ。

小西●じゃあ、人と会うことがお仕事なわけですね。

四至本★ええ。メキシコ一のビルに事務所を置いてくださいといわれまして、そうしました。そうしてあっちこっちの人を招待するの。それがお役目。宴会したり。

池田▼じゃあ、パーティしたり。

四至本★たまに日本から品物が来ると展示会をしたり。そういう仕事です。日本の宣伝さえしていればいいんです。向こうの偉い方を招待するでしょ、そうすると向こうからも招待されるから。だからうちの八郎のことをパーティさんと呼んでたくらい。お祭り八郎とあだ名がついているくらいですから、ちょうどいい役割だったんじゃないかしら(笑)。

小西●メキシコ滞在はいつ頃まで?

四至本★私(と大伴昌司氏)は昭和16(1941)年まで。戦争の一か月前までいました。最後のお船だっていうのでそれに乗って。八郎は帰ってくる途中、昭和16年12月にペルー沖で開戦になって、苦労して、日本にたどり着くんです。

池田▼見つからないように、船で逃げまわってたんですね。

四至本★終戦後アメリカに八郎が行ったときに聞いた話を教えてくれたんですけど、あの時は四至本があの船に乗っているのが分かっているから、助けてくれたんじゃないか、って。

小西●デリケートな時期にメキシコ滞在されていたんですね。

四至本★その頃、イタリアとドイツは第2次大戦に突入してましたから。

池田▼ヨーロッパでは始まってましたからねえ。

小西●そろそろ四至本家と徳島のご縁についてお話しを伺いたいと思います。徳島出身で総理大臣になられた三木武夫さんとのいきさつを教えてください。三木さんが明治大学の大学生の頃に海外で八郎さんにお世話になって、恩義を感じておられたということを伺っていますが。

四至本★八郎が三木武夫さんと初めてお会いしたのは、サンフランシスコの通信員のときでしたけど、紹介者なしで「会いたい」という人が、八郎に面会に来たんです。普通は会わないのですが、

学生だというので、当時だと大変珍しいので、特別にお会いした。そしたら自分は将来政治家になるつもりでいる。父がそれではその前にジュネーブの国際連盟を視察して来いというので参りました。船を下りてあなたの名前を前から知っていたので突然伺いました、っていうごあいさつだったと聞いております。それでアメリカの政治の状態を話してくださいというので、説明して、それが初めてのご縁でございます。

小西●三木武夫さんは既に八郎さんのご本などを読んで存じ上げていたということですね。

四至本★そうですね。

小西●それはいつ頃のことでしょうか。

四至本★昭和の初めでしょうか。

それから私が三木さんとのご縁で一番お話したいのは、1971(昭和46)年10月にアメリカ大使館であったレセプションのときのエピソードです。(次号に続く)

〔一部敬称略/収録:2008年6月13日、ホテルパシフィック東京/採録文責:小西昌幸〕


【インタビュー解説】四至本家のメキシコ滞在は1938(昭和13)年から1941(昭和16)年である。日米開戦(1941年12月8日)の直前に、アイさんと幼児の大伴昌司氏(当時5歳)は船で帰国を果たしている。談話では戦争の一月前ということなので同年11月だろうか。八郎さんは少し遅れて帰国するのだが、その船の中で開戦の報を聞き、1か月もの間太平洋をさまよいながら大変苦労して日本に帰還する。八郎さんは後にその体験を『開戦太平洋脱出』という書物にまとめている。四至本八郎さん(1891年8月1日生‐1979年10月8日没)は、早稲田大学卒業後、ロサンジェルスの新聞社(日本の新聞社の支局?)に勤務していた。三木武夫さんは1929(昭和4)年に明治大学に入学し、同年9月から1年3か月欧米滞在している。まず米国に渡り当地で1年間滞在しているので、四至本八郎さんをたずねたのはこのときと判断して間違いないであろう。時期としては1929年の秋ということになるのではないだろうか。当時、三木武夫氏は22歳である。米国で1年間居て、その後3か月で欧州各国を歴訪、ジュネーブの国際連盟視察も果たしている。次号ではいよいよ三木家との心温まるエピソードが披露されます。ご期待下さい。〔文責=小西昌幸〕

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