文化ジャーナル(平成20年11月号)
文化ジャーナル11月号
大伴昌司氏ご母堂・四至本アイさんに聞く(3)
★四至本アイ(ししもと・あい 大伴昌司氏ご母堂)
▼池田憲章(いけだ・のりあき SF特撮研究家)
●小西昌幸(創世ホール)
四至本★アメリカ大使館で1971(昭和46)年10月にレセプションがあって、そのとき、レーガン・カリフォルニア州知事が来ましたの。ニクソン大統領が来るはずだったんですけど、安保の余韻で来れないということで、代わりにカリフォルニアの知事だったレーガンさんが、大統領特使として来たんですよ。
そのときのレセプションに私たち夫婦も呼ばれました。呼ばれたのは146組でしたけれども、そのときに八郎がアメリカの公使から「随行の記者さんに日本の政治の話をしてやってくれ」って頼まれたんですよ。お招きした中にほかに適当な人がいなかったんでしょう。
それで、記者団と話しているときに、三木さんご夫妻が到着して入ってらっしゃっいました。そのときに八郎が記者団に「この人はアメリカの大学にも行ってますし、アメリカ通であるし、こういう方が総理大臣になったら両国にとっても良いと思いますよ」なんて話しました。当時は田中さんと福田さんが争っているときでしたから、「今は、なれないけど、その次には総理になれると思いますよ」なんて花を持たすためにいいましてね。小派閥だから、通常ならなれるわけがなかったのに。レーガンもその輪の中に加わりました。そんないきさつです。
帰宅してから八郎に、「まあ、なれるわけもないのにあんなこと言って。日本の年寄りの記者はボケてるんじゃないかっていわれるんじゃない?」なんていってましたの。そしたらああいうこと(1974年12月に三木総理誕生)になりましたの。
新聞に「晴天のへきれき」なんて話が出ましたね。そのときに三木さんは,東京のデパート全部に「三木家へのお祝いは頼まれても受け取らないから断ってくれ」って通知を出されたそうです。それも新聞に出ました。その時に私ども四至本家の祝い品だけは「断れない」ということで、それで(渋谷区)南平台のお屋敷に差し上げました。月桂冠2本でしたけど。
それでね、宮中にこれから参上するというのを見送りました。三木さんはお支度部屋にいて、「上がってくれ、上がってくれ」って言うの。
小西●いいお話ですね。アメリカで大学生時代に大変お世話になったという恩義を感じておられたのではないでしょうか。
四至本★レセプションで四至本の言ったことがうれしかったのではないですか。
小西●予言的中ですものね。でも私は両方あると思いますよ。
四至本★あのレセプションのときに有名な「ワシントン・ポスト」のお年寄りのジャーナリストも来ておられましたよ。だから世の中っていうのは、良いこといってあげるとちゃんと実現するものなんですね。つくづくそう思いました。
小西●あと、徳島との縁(ゆかり)で言いますと、徳島藩の殿様の蜂須賀家の方との関係のことをおっしゃっておられましたね。
四至本★蜂須賀正氏(はちすか・まさうじ)さんのお姉さんの蜂須賀年子さん。私がまだ独身の頃のことですけどね。私の先生が、蜂須賀年子さんの先生でもあったんです。
蜂須賀家には、先生に連れられて行ったの。あの頃は華族様は威張ってましたから私単独では行かれませんから。年子さんは松平康春子爵に嫁いでおられたけどその頃は離婚されておうちにいらしたの。年子さんはすごい才女なの。服飾芸術にとても才能を発揮していらしたから。
蜂須賀さんの家はとても大きなおうちでした。正氏さんが「骨董見せてあげるからおいで」なんて呼んだけど、私は行きませんでした。お姉様の年子さんが「決して一人で行ってはいけないよ、弟はまるで獣みたいよ」ってそういってたもの。蜂須賀さんは、片っ端から華族の女性に手をつけていたって。
池田▼昔のヨーロッパの貴族みたいですね。
小西●前に蜂須賀さんのものを色々貰われたとおっしゃっていましたね。
四至本★ええ、帯とか着物とか色々。
小西●それを荒俣宏さんが欲しがったので「いつでもあげるわよ」といったのに取りに来ないのよ、とおっしゃっていましたね。
四至本★そう(笑)。
荒俣さん、蜂須賀正氏さんをずいぶん尊敬しているのよねー。私、荒俣さんに言ってやったの「本当よ」って。
小西●蜂須賀正氏さんは政治よりも博物学などに関心がある人だったんですね。荒俣さんはそこに関心がおありなんでしょう。
四至本★ええ、そうなんですよ。正氏さんは利口なんですよ。ただ女癖が悪いだけ。
池田▼冒険家としても有名ですね。
小西●それで荒俣さんが欲しがったものを、差し上げることは出来たのですか。
四至本★忘れてるんでしょう(笑)。蜂須賀年子さんが和田三造さんと一緒にデザインされた帯が今でもあります、私んちに(笑)。それからね、年子さんは徳川慶喜のお孫さんですよ。
池田▼そうなんだ。
小西●この月末に荒俣さんが取材に来られるそうですが、その時に蜂須賀さんの帯のことを教えてあげたら思い出されるのではないですか?
四至本★もう、あげないわ、私。(一同笑)
小西●いやいや(笑)。大伴昌司さんは1960年(昭和35年)に池月荘というアパートを建てられましたね。
四至本★そう。
小西●このアパートに、徳島ご出身のスチュワーデスさんがいらっしゃったとか。
四至本★ええ。寺沢さん。
小西●この方のおうちが病院だったそうですね。
四至本★そうですよ、寺沢さんは家が徳島の病院だったの。彼女はおととし肺がんでお亡くなりになったの。60代でした。
小西●お若いのに、残念ですね。でも大伴さんがお亡くなりになってからもずっと最近までアイさんと交流があったのは素敵なことですね。
大伴さんは、「自分は四十前に死ぬ」とおっしゃっていたそうですが、海野十三さんがやはり自分は若くして死ぬといっておられたのと通じるものがあるんです。
池田▼不思議ですよね。運命論者でもないでしょうに。
四至本★私も大伴に「何も死に急ぐことないでしょうに」と言ったんですが「そういう風になっているからだめだ」って答えました。
小西●あと、大変有名なエピソードでお母さんが道端で大伴さんとばったり出会って「あなた、今からどこに行くの」って聞いたら「どこでもいいじゃないか」と言われて、そうしたらその晩テレビに出ておられたんですね。
四至本★そうそうそう(笑)。それがアポロの月面着陸のときの番組でした。たまたまうちの八郎がテレビつけていて見つけてね。あれ、これはうちの息子じゃないか、なんていうの。「だけど今さっき会ったけど何も言わなかったわよ。ツンツン怒って行っちゃったわよ」と報告すると、八郎がね「じゃあ、帰って来ても見たなんて言わないで黙っていよう」って言ってました。
小西●私もそうですが、子どもはあまり自分の書いたものなどを親に見せたいとは思わないですから。照れじゃないですか?
四至本★そうですか? うちのはとにかく変わっていたから。
【一部敬称略/収録:2008年6月13日、ホテルパシフィック東京/採録文責:小西昌幸】