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文化ジャーナル(平成21年3月号)

文化ジャーナル3月号

松居竜五氏講演会「南方熊楠の世界」を終えて

2009年2月22日(日)に開催した松居竜五(まつい・りゅうご)氏講演会「古今東西の知識の森へ~南方熊楠(みなかた・くまぐす)の世界」は、220名もの参集者があり、当方の予想を大きく超える盛会となった。今文化的な講演会で200名を集めることは容易ではない。経験上、澁澤龍彦や寺山修司など60年代文化を代表する人物をテーマにすると、たとえ田舎であっても、熱心なファンを200名以上集めることは可能なのだが(もちろん入念周到な周知宣伝と不断の努力は絶対必要)、それが南方熊楠でも達成できたことが何より嬉しかった。

これまで私は10以上の講演会を企画してきたが、今回のような短期決戦は初めてだった。諸般の事情から、松居竜五氏に正式の講師依頼の書簡をお送りしたのは、2008年12月17日だった。1週間後、松居氏から承諾した旨のご連絡をいただき開催日も確定、講演会の正式な企画書を起案し、町長決済を取った(12月25日付)。そして南方熊楠顕彰館や記念館などへの協賛申請、マスコミ各社への後援申請書類の発送が12月26日、回答期限が1月10日というとんでもない取り組みになった。年末年始の時期は郵便物がほかの書類にまぎれるような事態が起こるので、危険は承知の上だがそうせざるをえなかったのだ。そして年明けの新年度予算編成や創世ホール通信作成と並行して、チラシ(&ポスター)の版下作りをした。チラシ・ポスターの版下を印刷所に渡したのが1月14日、印刷所からの納品が20日。実質ちょうど一か月で宣伝戦を展開したのである。

私は1月19・20日と上京していたので、21日に出勤してから戦闘モードに突入した。まず、県内の全図書館を手始めに四国・岡山・近畿(和歌山や大阪や兵庫)の博物施設や公立文化施設など合計約百箇所にチラシやポスターを送った。それからダイレクト・メールを送った。今回は、私の事情でコミュニティ・エフエム局での番組出演による広報展開ができなかったが、新聞各紙には良く取り上げていただくことができ満足だった。「デイリースポーツ」四国瀬戸版(2月12日)、「読売新聞」徳島版(13日)、「徳島新聞」文化面(19日)、「毎日新聞」徳島版(21日)に告知記事が掲載された。

松居さんは奥様とともに前日の夕方、バスで徳島入りされた。同日夜、放送局や博物館の学芸員の知人に呼びかけて、いつものように会費制で松居先生を囲む会を開いた。

そのとき知った話。『少年ジャンプ』でかつて「てんぎゃん」という南方熊楠を主人公にした評伝マンガが連載されたことがあった。松居さんはその単行本第1巻の解説文をお書きになっている。「てんぎゃん」の担当編集者が熊楠ファンで、同作はその編集者が資料をそろえて漫画家と進めた企画だということだった。だから内容も、史実によく沿ったものなのだ。その編集者氏は後に荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』の担当にもなってヒットを飛ばし、現在は集英社の単行本の部署に移っているとの由。つまり松居さん共訳の『南方熊楠英文論考「ネイチャー」誌篇』(2005)が集英社から刊行されたのは、『てんぎゃん』を仕掛けた編集者が今の部署で実現した出版企画なのである。立派なこだわり精神であり、私は松居さんの話を聞きながら、その編集者を尊敬しなくてはいけないと思った。

松居ご夫妻は今年の4月から1年間、研究のために英国に渡られるとの由。この講演会企画はあわただしかったけれども、やはり今でなくては実現出来なかったものなのだと痛感した。私はこれを天国の大熊楠翁の導きのおかげだと解釈することにした。

熊楠の反吐のエピソードは、南方文枝さんがご存命のときに松居さんは直接お話を聞いたということだった(自慢話でお嬢さんに熊楠が語っていた)。松居さんは紳士なので、その種のエピソードは講演では、あえて披露されなかった。

松居さんとの打ち合わせで、講演会にはプロジェクターで映像を投影していただくことになった。以前は高級なプロジェクターをリース業者からお借りしたこともあったのだが、そんな金銭的余裕はないので今回は教育委員会のプロジェクターを使用した。講演時間は90分でその中の約30分間が映像投影によって行なわれる。プロジェクターは客席に設置し、ホリゾント幕に大きな映像を写す、その操作は舞台下手(客席から舞台に向かって左側)に置いたパーソナル・コンピュータから講師先生にしていただくわけだ。従って、長いケーブルが必要になる。教育委員会のプロジェクターのケーブルの接続端子の形は、両方とも15ピンの凸型だった。近所のパソコン屋さんで10メートルのケーブルを購入した。ただ、プロジェクターが古いものであり、ウインドウズの最新版やパワーポイントの最新版では作動するかどうか(投影ができるかどうか)分からないということを教育委員会の人から聞かされたので、事前に実験を行なう必要があった。松居さんにはその辺の事情をお伝えし、その結果、2台パソコンをご持参いただくということになった(万が一のことを考えて、さらに次善の対策も考慮して館としても、パソコンを準備しておいた)。講演会当日、早めに実験して無事に投影できた。

南方熊楠という人は、史上最も文字をたくさん書いた人ではないかということだった。和歌山に戻って以降は、英文も毛筆で書いていたようだ。南方熊楠愛用のすずりは中央部分が大きくえぐれている。それほどよく使い込まれたものなのである。

今回、催しの関連でガラス・ケースに私の手持ちの熊楠資料を展示した。昔、白浜の熊楠記念館を訪れたときに収集したチラシ類などが出てきたので掲示した。そのほかに資料を点検していて、「超人南方熊楠展」(1991‐1992)の図録に異装版があることを知った。松居さんのお話では、表紙のデザインが異なるのは、同時期に『南方熊楠アルバム』という写真集が発行されて、その表紙デザインが図録の初期表紙デザインとよく似ているという指摘があり、雰囲気を変えた改訂版が出されたのだそうだ。

当日プログラムには、田辺市の南方熊楠顕彰館や白浜町の南方熊楠記念館のリーフレット、方丈堂出版の『南方熊楠の森』の宣伝チラシなどをはさむようにした。私は短期の準備期間から勘案しそれぞれの施設には百部ずつしか送付依頼をしなかった。またレジュメ(松居先生が用意されたのはA3で3枚!)は、コピーで150セット作った。220人の来場者があったので結果的に大幅に不足したのだった。レジュメは大急ぎで追加分を増刷したが、とにかく来場者にはご迷惑をおかけしてしまった。全ては私の責任である。

講師紹介の原稿は、松居さんを囲む会を終えて帰宅後、就寝前に書いた。宇宙の彼方に博物学や民俗学の神々が集う世界があり、鶴見和子先生亡き後の熊楠研究の新地平開拓を松居竜五さんに託したのではないかと私は考えている、そんなことを展開したのだった。

講演は物凄く面白かった。松居先生は論語になぞらえて熊楠の学問的生涯を「志学」「而立」「不惑」「知命」「耳順」「従心」の6期に整理して展開された。鮮やかな手際に聴衆は、ひたすら圧倒された。

講演の終わりでは徳島の郷土史家で染織研究家の後藤捷一(ごとう・せいいち、1892-1980)と熊楠の接点に言及され、四国大学に現存する後藤氏宛ての熊楠書簡についてお話しになった。松居さんは、研究者仲間と講演会の翌日四国大学に調査に入られた。徳島からただ一人熊楠関西研究会に参加している鳴門教育大の平川恵実子さんも同行された(平川さんには、講演会準備段階から大変お世話になった)。

上記調査の件は講演会場に文化部か地方部の新聞記者が来ていたら、翌日同行取材するなりして、充分記事ネタになったはずなのだが、そういうことはなかった。実にもったいないことだった。

本は、『クマグスの森』が30冊(完売)、『南方熊楠 一切智の夢』が24冊、『南方熊楠の森』が15冊、それぞれ売れた。

県外からの来場者が多くあった。方丈堂出版(京都)の光本稔社長、岡山県倉敷市の古書店・蟲文庫の田中美穂さん(『苔とあるく』著者)や中西信一氏(元ロック・マガジン編集部)、松山市の藤原正明氏(日本有数の乱歩コレクター)などなど。県内のSFサークル・ゼロ次元や徳島科学史研究会の方々にもお世話になった。お心をお寄せいただいた全ての皆さん、本当にありがとうございました。

(2009年3月5日脱稿/文中一部敬称略/文責=創世ホール館長・小西昌幸)

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