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文化ジャーナル(平成21年5月号)

文化ジャーナル5月号

ポプラ社・田中治男さんの思い出

2009年4月30日午後、職場(北島町立図書館)にポプラ社中国・四国出張所のO所長さんが営業で来られた。私は同社創業者の田中治男さん(本名=田中治夫、1921年2月11日生、ポプラ社名誉会長)のことが気になっていたので、田中さんはお元気ですかと尋ねてみた。Oさんは、「田中は昨年6月21日に亡くなりました」といった。私は全くそのことを知らなかったので、自分のふがいなさ・至らなさを含めてがく然としたのだった。後で調べてみると、新聞には6月26日付の「朝日」と「毎日」の大阪本社版に訃報が掲載されていた。記事には葬儀は近親者のみで既に済ませ7月25日に「お別れの会」を開くとあった。すべては昨2008年のことだ。私には、追悼のメッセージを送ることもできない。せめて、ここに田中さんとの思い出をつづり、そのお人柄やご遺徳を偲びたいと思う。田中さんの本名は治夫だが、氏は生前「治男」という表記を使われて、名刺にも「治男」と刷り込まれていた。従ってここでの文章では、なじみ深い「治男」表記を用いることをお許しいただきたい。

田中さんと直接お会いしたのは4回である。最初が2003年5月30日佐野英さん(海野十三夫人)の葬儀・告別式のとき(代々幡斎場、渋谷区西原)、次が講演会のとき(10月15日に徳島入り)、3度目が同年10月26日新宿、4度目が2004年6月3日ポプラ社(新宿区大京町)だった。

実はお会いする前に、人からの要請で書簡をお送りしている。田中さん宛てに手紙を書いたのは2002年10月だった。知人のSF研究家・池田憲章氏(三一書房版『海野十三全集』編集委員)から電話があって「ポプラ社の田中会長に依頼状を書け」と頼まれたのだ。今の内に生前の海野十三をよく知る人に取材しておく必要があるので瀬名堯彦さん(『海野全集』編集委員)と田中さんにインタビューしたいという意向であった。私(小西)が海野十三の会の理事をしているので、その公的なルートで(?)依頼状を送る方がよいということらしかった。手紙をお送りしてすぐインタビューは実現したようだった。田中さんは、秋山さんというポプラ社OBのベテラン編集者をわざわざ呼んで取材対応してくださったのだった。

2003年の春、同年秋の「平成15年度徳島県読書振興大会」を北島町で開きなさい、ということになった。一定予算を与えるのでその中で企画・内容を自由にやってよい、という持ち回りの行事だ。大きな宿題を与えられ頭を抱えたが、やりがいのある取り組みでもある。

同年5月25日に佐野英さん(海野十三夫人)が天国に旅立たれ、私は海野十三の会の山下博之会長と30日に開かれた葬儀に出かけた(渋谷区西原の代々幡斎場)。そこで初めて田中会長に会いご挨拶したのだった。秋の講演会の打診をしてみた。ポプラ社のお付きの男性の話では、会長は講演のベテランですよということだった。

かくして2003年10月16日(木)、北島町立図書館・創世ホールで「平成15年度徳島県読書振興大会」を開催した。大会テーマは「検証・戦後出版界~大衆文学と子どもの本」。二人の出版界の重鎮を講師に招いた。一人は出版芸術社の原田裕(はらだ・ゆたか)社長、もう一人がポプラ社の田中治男会長(当時)だった。演題は、原田さんが「日本文芸の大転換期~戦後というとてつもない時代」、田中さんが「ポプラ社経営五十七年」である。

講演会のチラシに私が書いた田中さんの紹介は次のとおり。【たなか・はるお 田中氏は、1947年ポプラ社を創業。以後児童書出版一筋に57年間活躍している。同社は、海野十三『地中魔』に始まり、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズや、累計二千万部の大ベストセラー「ズッコケ三人組」シリーズ、百科事典《ポプラディア》などを生み大躍進している】

講演会が確定し、チラシやポスターを作り、徳島入りの日程や、講演内容を田中会長と詰めていった。この準備過程の一連の作業は実に楽しかった。田中会長は物凄く早くポプラ社に出社していて、例えば午前6時半頃に講演内容の打ち合わせの電話が、私の自宅にかかってきたりするのである。電話はときどき私の母親が取ったのだが、田中会長は決まって「小西先生はご在宅でございますか、失礼ですがあなた様は奥様でいらっしゃいますか」というようなことを話すのだそうで、母は笑って取り次いでくれたのだった。田中会長は徳島での講演を楽しみにしてくださっているようだった。海野十三文学碑建立の際ポプラ社が浄財を寄せているので、そこにぜひご案内しますと私は何度も伝えていた。それから山崎安雄『著者と出版社』(学風書院、1954年6月5日)で紹介されている海野さんとポプラ社の美しいエピソードなどはぜひ触れて欲しいとお願いしたので、ひんぱんに電話をいただくようになったのだ。多いときには、自宅に3回かかってきたこともあった。そのたび「小西先生でございますか」。「会長、お願いですから『先生』はやめてくださいよー」といってもずっと「小西先生」といわれたのだった。私は田中会長と話すのが楽しくて仕方がなかった。

読書振興大会前日、田中治男ポプラ社会長と原田裕出版芸術社社長は徳島入りされた。北島町立図書館・創世ホールで会場下見していただき、徳島市内の2つの海野十三碑をご案内した。さらに小山助学館(徳島市の老舗書店)と紀伊国屋徳島店にお連れしたあと、お二人の歓迎会を開催した。そこには、はるばる島根県から駆けつけた《本の学校・今井書店グループ》の今井直樹社長もいたし、ポプラ社岡山出張所の武井義宣氏もいた。

講演は充実した内容だった。海野さんとのことや、吉川英治さんの本をポプラ社から刊行することになった胸打つ逸話など、心に刻まれた。語り口も楽しかった。先に講演を終えて客席にいる原田さん(元講談社)に「原田さん、私は講談社さんを尊敬しておりますよ」と壇上から話しかけたりするのである。講演の模様は北島町内のケーブルテレビで完全収録され、後日放映されたし、文章としては四百字詰め原稿用紙50枚超の詳録が『平成15年度徳島県読書振興大会録』という冊子に収められている。

講演会時のエピソードでは、小山助学館の社長が昼休みに駆けつけて、田中会長に対面し感激で言葉に詰まって殆ど泣きそうになってじっと手を握っていた姿が忘れられない。田中会長は営業のプロであり、書店ルポの本を多く書いておられる。全国の本屋さんの信頼を受けた人だったのだ。

講演する田中さん 海野碑の前で。右から田中さん、小西、原田さん
講演する田中さん海野碑の前で。右から田中さん、小西、原田さん 写真左=講演する田中さん 写真右=海野碑の前で。右から田中さん、小西、原田さん

その後の2回は東京でお会いした。いずれも新宿の紀伊国屋書店本店で待ち合わせた。待ち合わせ時刻よりも10分早く行くと、既に田中会長はそこにいた。いつも早く来られるのですかと問うと、「ええ、私は15分早く行くようにしているんです」とニコニコしながら言うのだった。筋金入りの営業マンだ。私は舌を巻いた。10月26日のときは、瀬名堯彦・池田憲章両氏が同席し、中村屋でカレーを食べながら語り合った。そして、次回上京時はぜひポプラ社の新しいビルを案内するからゆっくり来て欲しいと田中さんから言われた。翌2004年6月3日、再び上京した私は11時からポプラ社、午後2時から出版芸術社という段取りでそれぞれ表敬訪問した。楽しい1日だった。このときのお話では、田中会長は最近まで自家用車を自分で運転して通勤されていたが、一度自損事故で車を大破させたことがあり、以後は会社の人が送迎をしているということだった。

その後も私は田中会長に「創世ホール通信」などをお送りしてきたが、ご高齢ということもあるしこちらからの電話などは控えるようにした。もっと会社の人に田中会長の具合などを時々たずねるべきだったかも知れないと悔やまれるが、いくら悔やんでももう遅い。

推理小説愛好家は皆、子どもの頃ポプラ社の『少年探偵団』シリーズにお世話になっている。同社は大衆文学愛好者の裾野を広げる重要な役割を果たしてきたのだ。ポプラ社は、久保田忠夫氏と田中治男氏が作った会社だ。同社は1947年8月に旗揚げした。その第一弾の本の中に海野十三『地中魔』があった。久保田・田中両氏をよく知る海野は応援のため同作を提供した。印税はあとで良いからといってポンと作品を差し出したのだ。同社はその恩を忘れず、海野亡き後も改版に次ぐ改版で海野の本を出し続け、遺族を援助したのだった。立派なことだと思う。これは私たち海野愛好家の間では有名な美談である。その海野十三を顕彰する徳島中央公園の文学碑に、6年前田中さんをご案内できたことを私はひそかに誇りに思う。田中治男さん、たくさんの楽しい思い出を本当にありがとうございました。

(2009年5月2日脱稿/文中一部敬称略/文責=創世ホール館長・小西昌幸)

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