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文化ジャーナル(平成22年3月号)

文化ジャーナル3月号

柴野拓美さんの思い出
偉大な戦後SFの立役者を偲ぶ

2010年1月17日12時頃、職場に東京創元社の小浜徹也さんから電話があった。柴野拓美〔しばの・たくみ〕さん(作家、翻訳家、SF同人誌『宇宙塵』編集発行人。ペンネーム・小隅黎)が16日夜お亡くなりになったことを知らせて下さったのだった。大晦日に肺炎で入院されたことは年賀状の返信で知っていたが、そのまま大往生されたのだ。享年83。その日私は午後からの《笑福亭たま・旭堂南湖二人会4》の諸準備をしている最中だった。あわてて川島ゆぞさん(本名・川島裕造、『宇宙塵』同人、元大塚製薬工場役員)、山下博之さん(海野十三の会会長、元徳島県立図書館長、元四国大学教授)、丁山俊彦さん(徳島県立文学書道館)にお知らせした。そして事務室で昼食のパンを食べながら、様々なことが思い出された。私は今から、力不足を承知で柴野さんの思い出を書きとめておこうと思う。

まず、柴野さんの簡単な経歴について。2001年の秋に私は『エディター』(機関紙広報研究センター)という冊子に「日本SFと二人の開拓者」という短い文章を書いたことがある。
(以下転載)


日本SFと二人の開拓者

小西昌幸

「SF」はサイエンス・フィクションの略。空想科学小説と訳される。専門文庫も多数あり、今では定着した日本SFだが、かつてはそうではなかった。一九五〇年代、SF出版に手を出した出版社や雑誌の休刊が相次いだため、「日本ではSFに手を出す出版社はつぶれる」とさえいわれた。その荒野を開拓したのは一冊の同人誌と一冊の商業誌だった。『宇宙塵(うちゅうじん)』と『SFマガジン』がそれである。

『宇宙塵』は一九五七年に創刊された同人誌で、編集発行人は高校の数学教師・柴野拓美。同誌から星新一がデビューし、以後同誌に関わった作家は光瀬龍、眉村卓、小松左京、筒井康隆、夢枕獏、豊田有恒、横田順彌など大変な顔ぶれ。

五九年には商業誌『SFマガジン』が早川書房から創刊。先の作家たちは全員が執筆した。編集長・福島正実や作家たちの奮闘で、六〇年代に基礎が築かれた日本SFは、数多くの論争も経ながら発展を遂げ、今日に至っている。

日本SF史を語るとき柴野と福島の名は外せない。「SFのSは柴野のS、Fは福島のFだ」といった作家もいた。二人は紛れもなく開拓者だった。「プロジェクトX」が日本SFを特集するとき、必ず二人が取り上げられるだろう。福島は七六年に四十七歳の若さで死んだ。彼の編集した数多くのSFアンソロジーは古書店で高値を呼んでいる。柴野は今も現役で、多くの愛好者や作家から尊敬を集めている。


柴野さんの50年以上にわたるSF界・文学界に対する貢献や業績は到底このスペースで表せるものではないが、とりあえず上の文章で大まかな経歴はご理解いただけたと思う。

ここからは、柴野さんと徳島の関わりを中心にメモしておきたい。柴野さんは、徳島に3回足を運んでおられる。最初は1962年8月14日、目的は初代海野十三碑(当時徳島中央公園)見学と四国文学会との交流のため。交通手段は当然船で、和歌山港から南海汽船で小松島港に到着されている。同行者は、土屋秀夫、豊田有恒、高忠、筒井康隆の諸氏。四国文学会・佃実夫代表の出迎えを受けバスで移動し、佃氏自宅で昼食をとり、午後3時からは四国文学会との交流会、その中で「第1回日本SF大会」の8ミリ上映を行なっている。交流会には、徳島唯一人の『宇宙塵』同人・川島ゆぞさんも夫人とともに参加されている。夜は阿波踊り見学、翌日鳴門渦潮観光をされたようだ。これらについては、『JU通信(第1期)』9号(海野十三碑保存会、1962年秋)に柴野さんが「海野十三碑をたずねて」と題して詳細なレポートを書いている(『JU通信◎復刻版』79‐81頁)。

私が初めて柴野さんにコンタクトを取ったのは、1997年7月のことだった。そのいきさつを手短に述べる。私が所属する海野十三の会は、海野の生誕百年を記念して佃実夫さんたちが発行していた第1期『JU通信』の復刻版を企画し準備していた。ところが現物の揃いは徳島県立図書館には無かった。四国文学会の現代表・後藤公丸さんもお持ちではなかった。三一書房版『海野十三全集』監修者の紀田順一郎先生とは既に面識があったので相談してみると、先生は数号お持ちで、それはお貸しいただけたが、まだ欠落分がある。「徳島新聞」文化面の大きな記事で呼びかけていただいたが、反響はなかった。途方にくれていると、紀田先生から「柴野拓美さんなら全号所有しておられる可能性がある。相談してみたらどうか」という情報が寄せられた。それで、私は柴野さんに相談の手紙をお送りしたのである。これが最初のコンタクトだった。柴野さんの対応は実にすばやく、しかも物凄く親切だった。全号所有していること、すぐ送りますというご連絡をまず電話で頂戴した。あいにく私は何かの用事で上京していた。家人がその旨を告げると、東京で会えないかとまで柴野さんはおっしゃったらしい。東京では私の時間がとれずお会いすることはできなかったが、とにかくすぐ『JU通信』探求分の現物が自宅に届いた。これら一連のご配慮へのご恩を、私は生涯忘れることはないだろう。

柴野さんの2度目の徳島訪問は1997年8月25日だった。先の『JU通信』探索の過程で、新しい海野十三碑が完成していることを知った柴野さんが夫人の幸子さん、牧真司氏(SF評論家)、小浜徹也・三村美衣ご夫妻と共に徳島入りされたのである。小浜さんは徳島県藍住町出身で東京創元社の編集者で京大卒の大秀才だった。夫人の三村さんもバリバリの書評家である。このときは確か広島で日本SF大会があり、その帰り道に足を伸ばしたということだったと思う。翌26日、私は海野十三の会の山下博之会長と2台の車で柴野さんご一行をご案内したのだった。鳴門市の川島ゆぞさんも当然合流された。この日の訪問場所は、徳島中央公園の二代目海野碑、安宅町の初代海野碑・四所神社・海野が幼少時を過ごした家、鳴門市ドイツ館。このとき8人で中央公園の海野碑前で撮影した集合写真がある。

3度目は、当館で開いた1999年10月17日の柴野さん講演会「日本SFを築いた人たち~SF同人誌『宇宙塵』・40年の軌跡」のときだった。私は日本SFを支えた柴野拓美という人を、世の中はきちんと評価するべきであると考え、講演会を企画したのだ。

柴野ご夫妻は前日徳島入りされた。この催しは聴衆が約170名だったのだが、そのうち県外から駆けつけた人が約40名という空前の様相を呈し、ロビーのあちこちで「あなたも来てたのか」というようなやり取りが交わされていた。小浜ご夫妻も、プレジデント社の石井伸介さんも、エヌ氏の会の森輝美さんも、国立国会図書館の藤元直樹さんも来て下さったのだった。

講演会の翌日は、川島ゆぞさんのご案内で大塚国際美術館を見学され、私もご一緒した。

講演会の準備過程で柴野さんから、第1回日本SF大会と宇宙塵20周年を祝う会などの記録映像をお送りいただいた。これらは、10月9日にプレ・イベント「宇宙塵と日本SFの歩み」と題して上映したのだった。

柴野さんの講演会が縁で、長谷邦夫さんとの交流が始まり、それは2001年3月に氏の講演会「マンガ風雲録~トキワ荘物語」として実を結んだ。長谷さんとは今も交流させていただいている。眉村卓さんご本人から激励の電話を頂戴したことも思い出深い。また小浜さんは創世ホールのロビーで柴野さんに『レンズマン』全巻の新訳版の話を打診し、後に実現に至った(創元SF文庫)。柴野さんの講演会は、様々な意味で非常に影響力のある、実り多いものだったのである。

私は、神奈川県二宮町にある柴野さんのご自宅を訪問したことがある。2000年6月12日のことだ。このときは、JRの駅近くの喫茶店でオムライスをご馳走になった。柴野さんは私がオムライス好きなのをご存じで、評判のお店に案内してくださったのだった。ご夫妻は私がオムライスを食べる姿をニコニコしながら見ておられた。柴野さんのご自宅は、本の山だった。SF大会の諸資料は年次別に段ボール箱に分けて積み上げられていた。柴野家の書斎探検は楽しい楽しいひと時だった。

私が日本推理作家協会に入会したのは、柴野さんに勧められたからである。『JU通信◎復刻版』に続いて『海野十三メモリアル・ブック』という海野十三に関する資料集を自費出版したので、見込まれたのだと思う。

先日、池田憲章氏とも話したのだが、柴野さんはたくさんの文章を残されている。それらはまだ単行本にまとまっていない。本体の『宇宙塵』の後記や、短い埋め草的原稿にも誠実な人柄がにじみ、味わい深いものがあった。『宇宙塵』関係者の文庫解説や、児童文学研究誌への論文や、『神奈川文化』にお書きになった「日本SFの30年」という長編論文なども重要だと思う。ぜひ、きちんとまとめておくべきだと私は考えている。

柴野さんは確か、そばアレルギーがあったと思う。ぜん息とは生涯付き合われた。お体があまり丈夫ではなかった柴野さんだが、83歳のSF人生は力いっぱい生きた誠に見事なものだったといえるのではないか。ただただ頭がさがる。柴野さんは生前の海野十三には、とうとう会えなかったとおっしゃっていた。今頃は天国で海野さんに会えただろうか。星新一さんや光瀬龍さんや野田昌宏さんや矢野徹さんや今日泊亜蘭さんと再会できただろうか。柴野さん、やがて私もまいります。そのときまでごきげんよう。そしてオリオンの星となって、私たちをこれからもお導きください。

(2010・03・03/文中一部敬称略/文責=小西昌幸)

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