HOME記事文化ジャーナル(平成23年8月号)

文化ジャーナル(平成23年8月号)

文化ジャーナル8月号

竹内博さんの思い出 小西昌幸

2011年2月27日北島町立図書館・創世ホール(徳島)

2月に開催した池田憲章氏講演会「脚本家・金城哲夫~特撮とドラマを初めて融合させた人」の講演採録を連載でお届けしています。文責は全て創世ホール・小西にあります。(文中一部敬称略)/写真撮影=高橋和之

3月号から池田憲章氏の講演会採録記事を連載中ですが、今月もお休みをいただき、本年6月27日、55歳で病没された特撮映像研究家・竹内博さん(1955年8月7日生、日本推理作家協会会員)の追悼文を掲載します

2003年3月23日に当館でご講演いただいたときの思い出を記しました。文責は全て創世ホール・小西にあります。(文中一部敬称略)

創世ホールの講演会は、紀田順一郎先生を出発点にしている。事典づくりに賭けた人々を主題に牧野富太郎、諸橋轍次、物集高見・高量親子、文倉平次郎を取り上げていただいた(1996年3月)。翌年の講師は松田哲夫さん。編集をテーマに、宮武外骨、長井勝一、赤瀬川原平を語っていただいた。その次の年は種村季弘先生に澁澤龍彦と土方巽をお話しいただいた。演題は「昭和を駆け抜けた2人の異端」だった。その後は探偵小説(山前譲)、SF(柴野拓美)、トキワ荘マンガ家(長谷邦夫)、造本設計(杉浦康平)といった具合に、ある文化テーマを決めて、それにふさわしい講師に狙いを定め、直接アタックする方法をとった。四国徳島の片田舎、人口2万人の町でこの種の取り組みを続けることは大変な苦労がある。そして催しというのは困難なハードルを越えて実現させたときの喜びもまた格別大きい。だから非常にやりがいのある仕事だと思う。

ミステリー、SF、マンガを取り上げ、話題を集めてきたのだから、そろそろ特撮映像をやりたいと考えたのは必然だった。おりしも2001年12月に竹内博さんが、ご自身の半生記『元祖怪獣少年の日本特撮研究四十年』(実業之日本社)を上梓された。竹内さんを創世ホールに降臨させよう(引っ張り出そう)。私はそう決意した。海野十三研究で親しくなっていた竹内さんの盟友・池田憲章氏に打診してみると、実現可能ではないか、ということだった。直接手紙も書いた。竹内さんのご面識のある円谷英二さん、香山滋さん、大伴昌司さんについてそれぞれ30分ずつ話していただけたら講演は何とかなるのではないでしょうか、ぜひ前向きにご検討を、という趣旨のことを書いて口説いた。実はこのとき竹内さんは味覚障害で、入院されていたのだ。2002年3月の竹内さんの書簡は次のとおり。


冠省。返書拝読しました。 演目が円谷、香山、大伴の3人ならば、私一人で充分もつと思います。
講演は私は初めてですので、不馴れな所もあると思いますが、お引き受けいたします。 夏迄に退院というのが私の見込みですが、打ち合せ等は8月~9月頃で良いのではないでしょうか。資料、写真等も揃えますが、いかがでしょうか。

以上要用のみ。

小西昌幸様

02・3・23 竹内博拝


2002年9月17日に上京し、池袋のミステリー文学資料館で待ち合わせた。同館の人が気を利かせてくれて応接セットで打ち合わせできることになり、池田憲章氏も交えて、奥の事務室で3人で話し合った。竹内さんは「自分はうつ病で、毎食後精神安定剤を飲み、夜は睡眠薬を服用している」といった。大伴さんと香山さんの写真、計10点はその場でお借りした。それから、円谷英二さんの写真は朝日ソノラマの写真集の掲載写真を指定してくれたらそれを用意できること、肖像権の管理を円谷コミュニケーションズがやっているので料金が発生する、その点について円谷サイドと直接交渉を、という実務レベルの助言をいただいた。香山さん、大伴さんそれぞれの著作権継承者の氏名と連絡先も教わった。「キングコング対ゴジラ」のキングコングの写真は著作権を海外で主張している人がいて問題が起こりやすいので使用しない方が無難でしょう、とも言われた。怪獣が写っているものは映画会社にも許可を取らないといけないから、チラシ、ポスター、当日パンフレットの類には掲載しない方向で行きます、というような会話もした記憶がある。また、竹内さんからは現皇太子(浩宮様)が幼少時にデパートで大伴さん監修の『怪獣図鑑』を手にとっている写真はぜひ使用して欲しい、その著作権管理は共同通信フォトサービスだということも教わったのだった。私もその写真はぜひ使用したいと考えていた。打ち合わせのやり取りを聞いていた池田氏が「せっかくだから僕も徳島に行きますよ」と言った。もちろん、彼は手弁当での参加である。これは朗報であり快挙だ。こうして、話はよい方向に転がっていった。この日の会話では、ある古書店の目録に海野十三の非常に貴重な資料(謄写印刷のもの)が掲載されているがあれはどうしたものか、というような会話を竹内・池田両氏がしていたのを憶えている。

冒険企画をそれなりにやってきた私だが、怪獣研究をテーマに取り上げるときには、かなり作戦を立てる必要があると考えた。町の主催行事なので、しっかりした企画書と必要書類を添えて、起案文書(伺い)を作成して教育長や町長の決裁を貰う必要がある。要するにプレゼンテーションの技術が問われることになるのだ。枕元に紙と筆記具を置いて就寝するような日々を送り、もだえ苦しみぬいた私は、ある日、天啓を得た。氏の半生記にヒントはあった。竹内さんは、孤独な少年時代(小学生時代)を送り、コツコツと大学ノートに雑誌や新聞の切抜き+手書きで、怪獣資料集を作ってそれを慰めにしていた(小6から中1にかけて作られたそれは『ゴールデンモンスター』と名付けられ大学ノート30冊の分量になった)。廃品回収業者のリヤカーを一緒に押して駄賃を貰ったり、コーラのアキビンを売るなどして小銭をため、電車賃を捻出し円谷プロ見学にゆくことも竹内少年の生きがいになっていた。そんな竹内氏のけなげさ、少年の一途な純情を円谷英二氏も香山滋氏も大伴昌司氏も大事に思ったのだと思う。そして、貧乏と孤独を背景にした純粋無垢な作業から生まれた手作り1部の『ゴールデンモンスター』は、後に勁文社〔けいぶんしゃ〕からの『原色怪獣怪人大百科』(1972年)へと結実し、120万部もの売れ行きを示すのだ。私はここに着目した。そして、ひたむきに物事に打ち込むことで何かが開けることもあるのだということを、私はこの講演会で町民の皆さんに提示したい、純粋さや情熱の大切さを知ることできっと深い感銘を聴衆の人たちに与えることが出来るに違いないと説明したのだった。当時の教育長など、目にうっすら涙を浮かべて「そうか、小西、ご苦労やなあ」といって決裁印を押してくれた記憶がある。

竹内さんは、大きな仕事をひとつ達成するたびに体調を崩して寝込むような人だったようだ。駆け足で彼のお仕事を振り返るなら、大伴昌司さんに関する証言記録からその全体像に迫る『OHの肖像』(飛鳥新社)、円谷英二研究論集『円谷英二の映像世界』(実業之日本社)、決定版写真集の『写真集・特技監督円谷英二』(朝日ソノラマ)、圧巻の『香山滋全集』(三一書房)、それから朝日ソノラマ関係の特撮映像資料集など膨大なものになる。また特撮音楽のサウンドトラック盤も彼のおかげで、たくさん日の目を見たのだ。命を削って取り組んだとしか言いようがない仕事振りだった。彼は書誌学的アプローチを特撮研究に持ち込んだ人だった。

竹内さん講演会に関しては、個人的にも思い出が多くある。チラシ、ポスターの印刷発注を年末の12月27日に決めていたが、前日の早朝、私の父が心筋梗塞のため急死したのだ。私は葬儀屋さんとの打ち合わせをした後、急きょ職場に行き1時間ほどでチラシ版下のフィニュッシュ・ワークをし、指定のメモを書いた。2002年12月26日のことである。また、創世ホール講演会でいつも司会進行役を引き受けてくださった北島町立図書館等協議会の村上昭美さんがご体調を崩し入院されていたので、私が司会をすることにしたのだが、村上さんは催し直前の3月20日に他界された。葬儀の日は22日で雨だった。その日の昼休みに喪服を着て告別式に出て、そのあと職場で着がえて当日パンフレットにアンケート用紙などを挟み込む作業をし、夕方徳島空港(松茂町)に竹内さんと池田さんを迎えに行ったのだ。その夜は、徳島市内の老舗のお好み焼き店《ニュー白馬》の2階で竹内さんの歓迎会を少人数で行なった。目のまわるような日程だった。

竹内さんの最初で最後のホール講演会には、120名の来場者があった。県外からの参加者が大変多く、その意味では柴野拓美さんの講演会と似た展開になった。四国の3県はもとより、岡山、神戸、滋賀、埼玉、東京、千葉、神奈川、福岡など幅広い地域からご来場いただいたのだ。

池田氏は小西宅で2泊する予定だったのだが、東京の出版社からの緊急連絡があり、NHK人形劇資料集の追い込みのために講演会終了後最終便で東京に帰還しなくてはならなくなった。そのため、講演会直前に、空港までボランティアスタッフの笠井義明さんの運転で往復していただくことになった。池田氏には講師紹介をしてもらうのだから本当にスリル満点で、私にとって胃痛などは通り越していた。

講演会前の打ち合わせで、私は竹内さんに、世間の人は怪獣研究などというと軽く見るだろう、だが自分はいささかも悔いはない、と誇り高く結んでくださいとお伝えしていた。竹内さんは、3人の思い出とその業績を語り、自分は貧乏だったので、苦労して電車賃をためて円谷プロ訪問をしていた、だからこう見えても少しは他の人よりも根性もあると思うと言う趣旨のことを話して結びとされた。私はそれでよいと思った。その後、質疑応答の時間をとり、ユーモアを交えて明解な回答をしたのだった。

写真

講演終了後、私は池田さんを送っていく必要があったので、友人たちに車を出してもらい竹内さんの身柄を預け、古本屋ソラリスや吉田書店をまわってもらい、夜徳島駅近くの店で開く打ち上げ会に合流することにした。2次会は近くの喫茶店に約10人で行った。みんなでわいわい話し込んでいたのだが、竹内さんは頃合いを見て「じゃあ、僕はこれで失礼します。ここは払っておきましたから」と言って宿舎に去っていった。かなりお疲れだったのかもしれない。滋賀から来た西村明さん(元スーパーミルク)はその夜高速バスで帰還される予定だったのだが、時間を間違えてしまったため乗り遅れ、小西宅で泊まることになった。

翌日は、午後の飛行機で東京に帰られるということで、朝の内から2か所の海野十三碑などをご案内した。宿泊先の《ホテルありの道》のロビーに早目に着いたら、既に竹内さんは待機して本を読んで待っておられるのだった。お昼に、うどん店・名麺堂にお連れしたら「おいしい」と言ってずいぶん喜んでいただいた。

今後の出版企画として、大伴昌司全集、円谷英二随筆全集などの構想を語っていた。円谷さんの随筆や対談、座談会、インタビューなどをまとめた本はA5判二段組みで7百頁を超えるものになる、企画書を幾つかの出版社に持ち込んでいるが、色よい返事がもらえないのだ、ということだった。この円谷さんの資料集成は、歳月を経て刊行されたのだが、氏は水も漏らさぬ仕事をする人なので、徳島で構想を聞かせていただいたときには既に9割方完成していたのではないだろうか。

ダンディな人と言うのが竹内さんの印象だった。竹内さんに「たくさんの資料があると、本を作るときに取捨選択で逡巡されたりしませんか」と問うと、彼は即座に「そんなことはありません。編集は捨てることですから」と明解に答えたのだった。カッコイイと思った。私などにはとても無理だ。また、香山滋さんの「処女水」は、醜怪な姿の生物学教師のある種の純愛を描いたもので、あそこに描かれた心情は美しいものですね、と私が感想を述べると「そうですね」と言われた。

その後竹内さんには東京で3回お目にかかる機会があった。だが、もはやそれを書くスペースがない。3年ぐらい前だったか、池田さんから竹内さんが体調を悪くされて入院し、人工透析を受けるようになったと聞かされ随分心配した。だが私には、せめて少しでも長生きをしてくださいと祈る以外どうすることも出来なかった。

昨年12月に刊行された『定本 円谷英二随筆評論集成』(ワイズ出版)は竹内さんの生前最後の、まさに命をかけた仕事になった。同書の巻頭文の「そろそろ見極めをつける時期だと判断し」「ここらでけりをつけることにした」という言葉は、この本を遺書のつもりでお作りになったからに違いないと、今にして思う。木部与巴仁〔きべ・よはに〕氏の話によると、竹内さんが多臓器不全で他界された6月27日夜のその時刻、井上誠さんと不気味社によって都内で伊福部昭さんの楽曲が演奏されていたのだと言う。ならば、竹内さんは彼が深く愛した伊福部先生の音楽に包まれながら、天に召されたと考えてよいのではないか。今はせめてそう考えることで、竹内さんの早すぎる死を受け止めたいと思う。竹内さん、どうか安らかにお休み下さい。いずれお目にかかるそのときまで、ごきげんよう、さようなら。(2011年08月02日脱稿)

カテゴリー