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文化ジャーナル(平成24年7月号)

文化ジャーナル7月号

採録◎東雅夫講演会
遠野物語と怪談の時代(2)

2012年2月26日(日)  北島町立図書館・創世ホール(徳島) 2月26日に開催した東雅夫氏講演会「遠野物語と怪談の時代」は、約200名が県内外から集まり、熱気あふれる催しになりました。その講演採録を連載でお届けします。文責は全て小西昌幸(当時創世ホール館長、現町教委事務局長)にあります。 (文中一部敬称略)/写真撮影=高橋和之


幸いにその後、去年一年を通じて全国の?北海道から沖縄まで?支援ボランティアの皆様のおかげで「ふるさと怪談トークライブ」を各地で開催していただいて、現時点で既に250万円くらいの義援金が集まりました。それで何をするかというと、こういう『みちのく怪談』の本の出版資金に当てて、それでみちのく怪談コンテストの優秀作を1冊にまとめて出すということが正式に決まって、おかげさまで今年(2012年)の夏に刊行されることになりました。そのような色々なことがあったときに出たのが『遠野物語と怪談の時代』でありまして、この本を書いていたとき(2010年)には、震災のことは全く頭になかったので、本当に思いもよらなかったようなご縁がある本だなと思っています。

つい先日も、今年の第2回みちのく怪談コンテストの選考会がありまして、私も久方ぶりに東北・岩手に行ってまいりました。高橋克彦先生、赤坂憲雄先生、そして私で、盛岡の公会堂を使わせてもらって、選考したわけです。

そのときに『マヨヒガ』という雑誌の創刊号を荒蝦夷から頂戴しました。赤坂さん、高橋さん、宗教学の山折哲雄先生など関係者が色々と関わっています。〈マヨヒガ〉というのは、『遠野物語』に出てくる山の中にある不思議な屋敷なんですね。山の中で道に迷って、ふとこの大きな屋敷?マヨヒガ?に迷い込んで、中にたどり着いてみると、つい今しがた人がいた気配があるんだけれども、呼べど叫べど誰も出てこない。そこの家の中のちゃぶ台に置いてある食器を持って帰った人がお金が儲かったというような不思議な伝承がある山中の屋敷を〈マヨヒガ〉というわけです。それをタイトルにしたこの雑誌は、荒蝦夷が編集制作しています。

遠野文化研究センターという、赤坂憲雄さんが所長になって、去年から活動開始した組織がございます。遠野市が母体になって運営しているのですが、遠野物語を生んだ伝承の宝庫である遠野について、色々な形で地域文化振興をして行こうという目的で設立された研究センターです。

ちょうど設立する年に東日本大震災が起きてしまったために、センターには今全国から本が次々に送られてきています。津波によって沿岸部の学校の図書館がみんな本を流されてしまい、子どもたちが本を読みたいけれども近くに本がないという状況があって、それで各地から集まった本をボランティアの人たちときれいに整理して仕分けして各図書館に配るという、そういう活動をずっと続けているわけです。この前、現場を拝見しましたが、まだまだ本が山のようにあって、それをボランティアの人たちが一生懸命整理して送ろうという活動をしていました。それから他にも〈文化財レスキュー〉という活動もしています。津波で泥や水をかぶった貴重な歴史資料をそのままにしておくと紙が腐ってしまうので、1枚1枚クリーニングするという保存活動を〈文化財レスキュー〉と名づけて行なっています。遠野文化研究センターという名称なんですが、今は実質、復旧支援のためのセンターになっているという側面があります。

さっきご覧にいれた冊子『マヨヒガ』は遠野文化研究センターをサポートする〈遠野文化友の会〉の機関誌ということになっています。友の会に入会すると無料で、さきほどの雑誌が毎号手に入るという特典がありますし、遠野市の市立の施設には無料で入館出来るとか諸々の特典がございまして、同時に復興支援の活動にもなるということでございます。全国から会員を募っておりますので、あちらにパンフレットも置いてあると思うので、ご賛同いただける方はふるって入会をしていただけると、赤坂先生や私は嬉しく思います。ぜひよろしくお願いしたいと思います。

それではそろそろ本題に入りたいと思います。お手元に年表をお配りしているので、よろしければそれをご覧いただければ分かりやすいのではないかと思います。本日の主役は、この3人の男達と『遠野物語』という1冊の書物でございます。右から水野葉舟(みずのようしゅう)、柳田國男、佐々木喜善(ささききぜん)、この3人が『遠野物語』という作品の誕生に深く関わっているというか、実はこの3人が揃わなければ『遠野物語』の誕生はありえなかった。まずそのことを今日はお話ししたいと思います。

最初に簡単に3人の紹介をします。真ん中の柳田國男さんについては、あえてご説明しなくても良くご存じの方が多いと思います。日本民俗学の開拓者、父といっていい存在ですね。柳田さんは兵庫県在住の松岡という家に生まれました。後に柳田という家に養子に行くために苗字が変わるのですが、実の父親は医師であり漢学者、同時に神職でもあったという、古い家柄の家に育ち、兄が国文学者であったり、日本画家の松岡映丘(まつおかえいきゅう)が弟になるのかな、6人兄弟なんですが、とにかくそれぞれ人文学や芸術の分野で一家をなしたという、そういう名門といっていい所の出でございます。1900年(明治33年)に東京帝国大学の法学部を卒業して、農商務省に勤務するようになり、法制局の参事官とか貴族院の書記官長とか、まさに高級官僚と呼ばれるような晴れやかな出世街道を歩んでいたのですが、あるときからそこを辞して民俗学という分野にのめりこんでゆくことになる。ひいては日本民俗学を確立した大変な巨人だと思います。3人の中で一番長生きをしたのが柳田でした。88歳で亡くなっていたと思います。

この柳田國男に比べて、両側にいる2人は残念なことに知名度の点ではかなり落ちるわけです。試しに百科事典で調べてみても柳田の項目はあっても、両脇の2人はよほど専門的な事典を見ないと載っていないという悲しむべき状況がずっと続いております。今日おこしの皆さんも文学方面に興味がない方は、「初めて聞く名前だよ」という方が多いのではないかと思います。

柳田が一番年長なんですが、その次が水野葉舟です。葉舟は東京の下谷?下町ですね?下谷に生まれて、葉舟というのは雅号です。ちょうど柳田が就職した1900年に、与謝野鉄幹と晶子が中心になって運営していた新詩社という文学団体に彼は入門をします。同じく新詩社に入った高村光太郎(この人も有名な詩人、彫刻家ですね)と大変親しくなって、最初の頃から文学青年一筋というそういう出自・生い立ちだったわけですね。葉舟が有名になるのは、も少し後で、彼はまだ若い頃に与謝野晶子との間柄を疑われるというちょっとした事件が起きて、鉄幹からにらまれて、やむなく新詩社を脱会せざるを得なくなったというそういう逸話もあります。新詩社は破門されてしまったのですがその後も彼は文学活動を続けて、〈小品文〉という短編小説よりももっと短い作品、今で言うショートショート的な小説が明治に流行ったんですが、詩的な文章ですね、その小品文の大家という評価を受け、文学の世界ではその分野でまず名をなした。同時に葉舟は心霊の世界(スピリチュアリズム=心霊学)というものにのめりこんでゆくんですね、それが今日のお話の要になってゆくのですが、海外の文献を読んだり翻訳したり、同時に日本の心霊や怪異体験談などを収集して雑誌に発表したりという、そういうお化けに取り憑かれたように、そちらの世界にのめりこんだ人であります。ただし後半生はガラッと変わりまして、トルストイに傾倒してトルストイの農民文学論といいますか、土と共に生きるという教えに共鳴して、千葉の成田市の方に広大な土地を購入して農民生活に入るわけです。心霊からいきなり農業・農民生活に行ってしまったと言う、そういうユニークな後半生を送った人であります。

それからもう一人の佐々木喜善に移ります。これは仙台にいた頃の、かなり晩年に近い頃の写真だと思います。佐々木喜善という人は、遠野地方に今で言う山口村字土淵(つちぶち)というところがあるのですが、まさに遠野物語の舞台そのものというような所で生まれ育った人であります。 (次号に続く)

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