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文化ジャーナル(平成24年8月号)

文化ジャーナル8月号

採録◎東雅夫講演会
遠野物語と怪談の時代(3)

2012年2月26日(日)  北島町立図書館・創世ホール(徳島) 2月26日に開催した東雅夫氏講演会「遠野物語と怪談の時代」は、約200名が県内外から集まり、熱気あふれる催しになりました。その講演採録を連載でお届けします。文責は全て小西昌幸(当時創世ホール館長、現町教委事務局長)にあります。 (文中一部敬称略)/写真撮影=高橋和之


講演会の写真

ただ、(佐々木喜善の)生家は、農業、それから当時ばくろうといって馬方ですね、荷物を沿岸部と内陸、相互に流通させるという商業活動をしていた。だから裕福な家の生まれなのですね、彼は。当時の遠野はそんなに豊かな所でもなかったので、大学に進学する人も珍しかったのですが、喜善は上京して大学に進学して、今の東洋大学?哲学館?という所に入って勉強しようとする。なぜ彼が東洋大学(哲学館)に入ろうとしたかというと、これも実は、お化けと関係があるんです。

当時を回想した喜善の文章があるのでちょっと読んでみます。「私は少年の時から臆病な癖に、バカに妖怪変化の譚(ものがたり)が好きで、当時の妖怪学の大家井上円了(いのうええんりょう)博士の哲学館と云うに、化物の講義を聴きに遙々(はるばる)と奥州の果から上京したことがあった。」

つまり当時お化け博士として非常に有名であった井上円了という仏教哲学者がいるわけです、この人は東洋大学の創設者として今でも有名なんですが、この円了先生のお化けの講義を聞きたいのでわざわざ東京の哲学館に入ったんです(笑)。ところがいざ入ってみるとですね、もともと哲学の先生なわけですから、老子であるとかカントであるとか、大学でお化けの講義をしていたわけではないので、それで失望してしまってこれはいかんということで、今度は早稲田大学文学部に入りなおしたという、そういう愛すべき人であります。

その後、喜善は絵にかいたような文学青年のコースをたどります。泉鏡花という明治・大正・昭和を通じての文豪であり、お化け好きとしても有名な文学者がいますが、喜善は鏡花に大変傾倒して、作品が好きだったので、自分も筆名を「鏡石」と名乗るようになった。それぐらい傾倒した人だったんですね。上京する前から彼は泉鏡花に盛んにファンレターを送り、入門を志願していたようであります。鏡花はあまりお弟子さんを取るような人ではなかったので、残念ながら一門に入ることはかなわなかったのですが、鏡花もさかんに手紙で喜善に「早く上京して文学に打ち込んだらどうですか」という返事を返しているぐらいで、怪奇幻想的な妖しい文学の世界に若い頃から憧れていたのが、この佐々木喜善であったということです。

これが喜善の生家です。遠野地方の典型的な農家の造りである曲り家(まがりや)で育ったわけです。喜善は不遇なところがあって、文学青年として上京し活動していたのですが、生まれつき身体が弱かったんですね。途中で体調が悪くなり、志半ばにして遠野の実家に戻ってきます。戻って何をするかというと村長選挙に推されて、村長になってしまう。つまり当時遠野で東京の大学で学んできたようなインテリは他にいなかったので、そういう人に村長をやってもらった方がいいんじゃないかということになったと思うのです。

ところが彼は、村長の仕事には向いてない人物だったんですね。それで非常に苦労して、同時にお人好しといいますか、自分の私財を投じて村の整備にお金をつぎ込むようなことになってしまう。結果的に、お金に困り、同時に政治的な面でのごたごたがあったりして、結局喜善は苦労したのに報われず職を辞して、遠野を去らなければいけなくなってしまう。それで仙台の清水沼という郊外に晩年移るんです。仙台に移ってからは彼は一番有名な業績としては『聴耳草紙(ききみみぞうし)』という本を始めとして、昔話や民話の収集・研究、そういう分野の先駆者として、《日本のグリム》と呼ばれたりするぐらい大きな功績を昔話研究の世界で残します。小説家となる夢も捨て切れず、仙台の新聞に連載などもしていたのですが、なかなか広く認められるということがなく、そのうちに腎臓を悪くして、結局最後には48歳という若さで亡くなってしまうという、そういう生涯をおくった人であります。

今ご紹介した3人?柳田國男、佐々木喜善、水野葉舟?の関係、それが『遠野物語』につながってゆくということは、実を言うと、1980年代頃からようやく知られるようになったことで、それまでは全く知られていないといってもよかったんですね。

これは『遠野の手帖』という本です。松谷みよ子先生がやっておられる日本民話の会の『民話の手帖』というシリーズの別冊で刊行されたものですね。この中に「『遠野物語』その成立をめぐって」という、森田元美さんという方の論考が掲載されました。

ここに何が書いてあるかといいますと、遠野物語が成立するときに実は水野葉舟という人が大きな役割を果たしていたことをこの論文で殆ど初めてですね、民俗学方面の人が知ることになったという記念碑的論文でございます。

この論考が出たのが1985年です。この中で森田さんは、山田清吉さんという水野葉舟と大変仲の良かった人がおりまして、彼が67年に「水野葉舟と遠野物語」というエッセイを『楡ノ木(にれのき)』という雑誌に載せたんですね。それをたまたま森田さんが読んで、その中に実は水野葉舟が『遠野物語』誕生に大きな役割を果たしたんですよと、折口信夫(おりぐちしのぶ)が山田さんに語ったという話が出てきたということなんです。

ところが水野葉舟が『遠野物語』に関係があるよということは、ここで出るまでは(1980年代半ばまでは)殆ど民俗学の方面ではおっしゃる方はいなかったんですね。

この『もう一つの遠野物語』という本は、今の森田さんの論考を見て、1994年に刊行された岩本由輝(いわもとよしてる)さんの研究書です。この本が出て、それでようやく広く、広くといってもこれも専門書なので、決してそんなに部数は多くはないと思うのですが、それでようやく知られるようになったということなんですね。

ところがですね、大変象徴的なことがございまして、この岩本さんの『もう一つの遠野物語』、帯のところにも書いてありますが、「ひとりの語り手佐々木喜善から同じ話を聞いたふたりの書き手、柳田國男と水野葉舟がそれぞれの『遠野物語』を書いた。両者のテクストを具体的に比較しての新しい柳田論である」という触れ込みの、まさにそういう内容の、丹念に跡づけをした良い本だと私は思うわけです。

ところが、この本が出たときに民俗学の世界でどういう評価をされたかといいますと、歴史学・民俗学で著名な色川大吉さんという方が、この本をなんと評したかといいますと、「柳田をいたるところで貶めている」「遠野の民話を怪談としか扱っていない水野葉舟の冗漫微細な記述を柳田の物よりむしろ遠野らしさを伝えることになっていると主張している。志の低い本である」と(笑)、ひどいことを言われてしまったわけですね。ひどい言われ方をしてしまったんですが、これは決して色川さん一人の評価ではなくて、日本民俗学の世界では全般的にそういう反応が多かった。これは何でそうなるのかというと、柳田國男は日本民俗学の父であり確立者でありますから、その柳田が民俗学を確立する最初期の名著として名高い『遠野物語』は民俗学の方々にとってはいわばバイブル、聖典といってもよい位置付けがされてしまっていたわけですね。『遠野物語』に対する崇拝といいますか、だから民俗学の分野では神聖にして侵すべからず的な位置づけの書物である。そういう『遠野物語』が実は柳田オリジナルではなく、水野葉舟という人が成立に非常に関わっているんだよ、別バージョンも書かれているよという話がここに明かされていたために、非常に感情的な反発を買ってしまったのではないかと思うんですね。

それでは一方で話の提供者である佐々木喜善の方はどうなのかといいますと、喜善のことも単に《『遠野物語』の話を柳田國男に伝えた存在》としか思われてこなかったんですね。 (次号に続く)

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