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文化ジャーナル(平成24年9月号)

文化ジャーナル9月号

採録◎東雅夫講演会
遠野物語と怪談の時代(4)

2012年2月26日(日)  北島町立図書館・創世ホール(徳島) 2月26日に開催した東雅夫氏講演会「遠野物語と怪談の時代」は、約200名が県内外から集まり、熱気あふれる催しになりました。その講演採録を連載でお届けします。文責は全て小西昌幸(当時創世ホール館長、現町教委事務局長)にあります。 (文中一部敬称略)/写真撮影=高橋和之


講演会の写真

残念ながらつい先ごろお亡くなりになってしまったのですが、山田野理夫(やまだのりお)さんという、戦後の怪談文芸史を語る上で大変重要な仕事をされた人がいるのですが、この山田さんが『遠野物語の人・わが佐々木喜善(ささききぜん)伝』という本を1974年に刊行されています。この本の帯には、「柳田國男の『遠野物語』は佐々木喜善なくしては生れなかった。しかしなぜかその名は忘却の彼方におかれている」と書かれているぐらい当時は喜善のことも知られていなかったのですね。

これは山田さんの新聞インタビュー記事ですが、この見出しが「いつも失意の生涯」。これは喜善のことなんですけど、そう言われるくらい初めて山田さんの本によって、佐々木喜善がどのような人であり、同時に『遠野物語』の成立にどれだけ深く関わっていたかということがようやくにして明らかにされたということです。それが1970年代から90年代ごろまでかかってしまった。

これは山田さんの怪談を集成した『東北怪談全集』という本でございます。一昨年(2010年)仙台の出版社・荒蝦夷(あらえみし)から出まして、私、解説を書かせていただいたんですが、山田さんはこういう業績のある方です。

柳田國男研究では有名な石井正己さんという民俗学の先生が『遠野物語の誕生』という本を2000年に出して、これにより、民俗学の分野でも一応そういう成立事情が知られるようになってきた。

それでは水野葉舟(みずのようしゅう)と佐々木喜善がどのように『遠野物語』に関わったかということですね。それをお話ししてゆきたいと思います。まず、最初に知り合っているのは、柳田と水野葉舟です。この2人はもちろん文学者として色々と東京で活動していました。

特に柳田國男という人は、島崎藤村であるとか田山花袋であるとか、いわゆる自然主義文学で後に大御所になっていくような作家たちと若い頃から親交がありました。柳田自身も元々は官僚としてではなく、詩人として文学活動をしていて、非常にロマンティックな恋愛詩を書いたりしていたわけですね。この文学青年時代の柳田國男と葉舟は文学サロンなどで面識があったわけです。そのあと、葉舟が怪談という方面に関心を持つようになって、そこに登場するのが佐々木喜善なんですね。年表にも書きましたが、この2人が明治39年(1906年)の10月に運命的な出会いをするわけです。

佐々木喜善という人は日記を丹念につける人でありまして、色んなことを、こと細かく記していて、当時付き合っていた彼女のこととかも出てきて(笑)、読んでいると実に面白いんです。その喜善の日記の中にこういう一節があります。「夜水野君を訪(おとの)うて十一時半まで話をする。初対面なれど互(たがい)に心打ち解けて話し、怪談初(はじ)まる。雨頻(しき)りに降る」。

つまり彼ら??葉舟と喜善??は、いきなり初対面で怪談話をして、盛り上がってしまったということなんですね。実は、このことを葉舟がそれから間もない明治41年(1908年)1月に、『新小説』という当時の文芸雑誌に「北国の人」という短編小説の形で発表しまして、ここにかなりリアルにその時のことを書いているんですね。萩原という登場人物が喜善のことです。

どういう書き方がされているかというと、面白いので少し紹介しますと、葉舟の下宿に、ある時大学生が訪ねてきた。鴨居に首がつっかえそうな大きな男であった。それを取り次いだ下宿屋の娘さんがですね、「変な言葉使いをする方がいらしています。私には何をおっしゃっているんだか、半分ぐらいしか分かりません」。つまり喜善は東北・岩手の出身で、なまりの強い言葉なので東京の人にはなかなか聞き取りにくいということがあったようでして、いったい誰が訪ねてきたんだろうと。とにかく彼を迎え入れて、それで対面するんですが、もじもじしてちっとも話をしないと(笑)。葉舟の方がしびれを切らして話のきっかけを作ろうとするんですが、なかなか話が出てこない。

現在でも東北の人は寡黙な傾向があって、心を許すと色々な事をフレンドリーにおっしゃいますけど、初対面だとなかなか打ち解けて話さないところが、全般に東北人の気質としてあると思うんです。喜善というのはその典型だったわけですね。話をぽつぽつしている間に、たまたま話が怪談方面に向かっていった。ちょっと「北国の人」の一節を読んでみますと、《……「それはそうと変な事を聞くようですがね、お国の方では迷信がひどくはありませんか。お怪談(ばけばなし)なんぞが……前(せん)に僕は誰れかに聞いたっけ。そんな話は寒い国程盛んだって」……》。葉舟が言ったわけですね、すると喜善が《「盛んです。……そんな話ばかりですよ」「やっぱり、陰鬱な故(せい)かしら」「どうですか。国ではまだ巫女だとか、変な魔法を使うと言う女などが沢山いましてね」》。

これを聞いて葉舟は色めきたつわけですね。《「魔法?……何です、それは」「何ですかね、蛇だとか、色々な毒虫を見ると、何か呪文(おまじない)のような事を言って、直(すぐ)それを殺してしまうのです。」東北ではおまじないで蛇を殺しちゃうそうなんですね。「私の祖母(おばあ)さんもやりますよ」……》ということを、喜善がぼそっと言ったわけですね。それで正に怪談とか心霊に興味を持っていた葉舟は「これは、ラッキー」と(笑)、そういう風に思ったんでしょうね。

喜善の方もお化けの話になると、今までの寡黙な様子から一変したという。どういう感じかというと《荻原(喜善のこと)の目に、陰鬱な火のような表情があらわれた。心が燃えて、烈しく慄える様子が見える。その話もごつごつしていながら、そのうちに自(おのずから)抑揚の調子が出て来て、人を魅する力がこもっている。彼は感情の高まった声をして、「その山では、私の家によく来る隣村の猟夫(りょうし)がこんな目に逢った事もありますよ」》。まさに『遠野物語』に語られている怪談を葉舟の前で、憑かれたように語り出したというんですね。それ以来、葉舟と喜善はお化け話で意気投合して、友達としての付き合いが始まると。そういう流れになってゆきます。ちなみに葉舟も喜善もキリスト教の洗礼を受けていて、目白の方のキリスト教の団体に参加しているんです。そういうつながりがあったということなんですが、大変仲が良くなっていくわけです。

そのことを葉舟が「北国の人」という小説に書いたわけですけど、葉舟はそのことを喜善に「書くよ」とは伝えてなかったんです。それで『新小説』が出て、葉舟のその作品を見た喜善は烈火のごとく怒ったというんですね(笑)。つまり「自分のことをこんな風に書きやがって」みたいな。お前とは絶交だみたいなことがあったらしいんですが、それでもなんとなく葉舟の方が色々気をつかって、「ごめんごめん、今度牛鍋でもおごるから」みたいなことがあってまた仲直りをしたと。そういう経緯があったようでございます。

当時の葉舟と喜善のことを非常によく表しているのが、次のエピソードです。年表の明治41年10月23日のところを見ていただきたいのですが、ここに喜善の日記の一節を写しておきました。《夜十時頃だったろう。皆んなでお化話をしていると、誰かが表へ来て僕の名を呼ぶものがある。水野君だ! 泊めて呉れろと言うので泊めた。これから趣味(=文芸雑誌)の原稿を書くんだと言う。三時まで書いたそうだ!》と書いてあって、まさに喜善がお化け話をしているところに葉舟がやってきて小説を書いているという、当時の文学青年たちの怪談への傾倒ぶりが露わに出ている日記の記述じゃないかと思います。

ちょうどこの時期が『遠野物語』誕生のポイントに当たる時期なんですね。次のところを見ていただきますと、23日のすぐ後の28日に柳田と葉舟が同席した龍土会(りゅうどかい)??これは有名な文学サロンですね。自然主義文学発祥の会となったことで知られているところですが、そこの席で妖怪談(妖怪の話)が話題になった。

翌日の29日に葉舟から喜善にハガキがまいります。今だったらメールで送ってるんでしょうけど、「11月の4日は君は何か予定ある?」みたいな連絡をしている。その日に何があったかというと、これも喜善の日記にあるんですが、「学校から帰っていると水野君が来て共に柳田さんの処に行った。お化話をして帰って、帰り道に水野君の初体験をうんと聞かされた」(笑)。つまり柳田國男の家に佐々木喜善は水野葉舟に連れられて出かけているわけですね。それで何をしてきたかというと、お化け話をしてきたと、彼ははっきり言っているわけです。実は、この時がまさに『遠野物語』誕生の最初の記念すべき日になったわけなのです。 (次号に続く)

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