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文化ジャーナル(平成24年10月号)

文化ジャーナル10月号

採録◎東雅夫講演会
遠野物語と怪談の時代(5)

2012年2月26日(日)  北島町立図書館・創世ホール(徳島) 2月26日に開催した東雅夫氏講演会「遠野物語と怪談の時代」は、約200名が県内外から集まり、熱気あふれる催しになりました。その講演採録を連載でお届けします。文責は全て小西昌幸(当時創世ホール館長、現町教委事務局長)にあります。 (文中一部敬称略)/写真撮影=高橋和之


講演会の写真

柳田國男が、〔佐々木〕喜善(きぜん)の語った怪談話に非常に興味を持ったことが分かるのが次の11月13日の記述ですね。午前中に柳田が小石川武島町にあった喜善の下宿を訪ねて、遠野のことについて質問をしている。つまり、エリート官僚だった柳田が、一介の文学青年である大学生の喜善のところにわざわざ訪ねて行ったわけですよ(笑)。それぐらい柳田にとって、〔水野〕葉舟(ようしゅう)が喜善のお化け話に感動したというのと同じぐらい、あるいはもしかするとそれ以上に柳田國男も、喜善の語る遠野の怪談話に非常な衝撃を受けたようですね。

柳田は晩年の回想記『故郷七十年』という本や、若き日をふりかえる対談記事などで当時を回想していますが、その中に『遠野物語』を書く前の時期のことが書いてあって、喜善の話を聞いて、「神経がおかしくなるような衝撃を受けた」というようなことを柳田自身が告白しているんですね。それぐらい後に『遠野物語』にまとめられる喜善のお化け話というものが、葉舟にも柳田にも衝撃であったということです。

実はこの集まりは、一回だけではなくて、柳田が葉舟と喜善を自宅(柳田邸)に呼んで、そこで同じような遠野の話を聞かせてもらうという、そういう集まりをするようになります。これがですね、何という名前だったかというと、「お化け会」。まさに怪談会=お化け会と通称されていたわけです。

その時点で柳田はお化けの話を聞く会を持っていたわけですね。「今日のお化け会はどうこうで」ということを3人で言い合っていて、そういう実態が喜善の日記とかエッセイから明らかになっています。つまり、はっきりその時点で柳田自身もそれがお化けの話を聞く会だという認識を持っていたわけですね。そうして何回か、年表にもありますように、翌年にかけて何度かお化け話の聞き取りの会があり、柳田は後に手帳に非常に細かく喜善の話を記録して、それを自分自身の言葉によって書きあらためて『遠野物語』という本が誕生することになるわけですけれども。

その間にもひんぱんに喜善から聞き取りをして、事実関係を確かめたり、一部は喜善自身が書いたものを柳田に渡してそれを柳田が書くという、かなり喜善自身が成立に深く関わっている事実がそこからも分かります。年表の明治42年3月14日のところを見ていただきますと、「水野葉舟が遠野の佐々木家に到着」とあります。つまり、葉舟は喜善の話を聞いていて矢も楯もたまらなくなって、これは遠野に自分で行ってみるしかないよということで出かけて行くわけですね。柳田よりも葉舟の方が一足早く遠野に行っているわけです。しかも、葉舟はけっこう長いこと遠野に滞在して、喜善に案内されて色々な所をまわったりして、そのときの見聞を自分の作品にも、小説とか随筆に書き遺しているんですね。

それに対して柳田は、同じ年の8月22日に遠野に出かけておりますが、日付を見ていただきたいのですが、22日に出かけて26日にはもう帰ってきている(笑)。しかも遠野に行った時も、たまたま喜善がよそに出かけていて会うことができなかったんですね。本当に数日を遠野で過ごしただけで、彼は戻ってきておりまして、実は『遠野物語』が出版されるまでに、柳田が遠野に行っていたのは、この数日間だけだったわけです。

彼はこの『遠野物語』が出るちょっと前の時期にですね、宮崎の椎葉村(しいばそん)という大変な秘境があるのですが、『後狩詞記(のちのかりことばのき)』という彼の最初の著作になる、狩人の言葉を地元の方から聞いてまとめた口伝を記録した本を出すわけです。椎葉村を探訪したのは、なるほど後に民俗学で「フィールドワーク」と呼ばれる研究方法の先駆けであるわけです。

ですが遠野に関しては、たった数日間だけなんです。しかも喜善にも会うことなく、行って帰ってきただけなわけなんですね。ですから民俗学の方々は『遠野物語』を「民俗学の黎明を告げる書」という風におっしゃいます。実際に、『遠野物語入門』的な民俗学の本をみると、柳田がいかに遠野のことを調べて執筆したかというようなことが書いてあるわけですけど、あの本の中で柳田が実際に遠野に行って見てきているのは、おしまいの方だけでありまして、本体の部分はあれは完全に喜善が語った話——それも『遠野物語』をお読みになった方はお分かりかと思うのですが、あの中の話の殆どというのは幽霊であるとか、山人、山男、山女、あるいはオシラ様という神様であるとか、狐、狸、狼、そういうものが人を化かしたりするというような、今でいう怪談話ばかりといってもいいくらいなんですね。しかも、それが昔あった話というのではなくて、あの『遠野物語』に語られている話というのは明治40年代の現代でリアルに起こっている怪談話を記録し、それをしかも土地の名前とか人の名前までリアルに書き記して、あそこには記録されているわけですね。

これはまさに、去年の「ふるさと怪談」でお話しいただいた徳島の松村進吉さん、今日も客席におられますけれども、松村さんが今「怪談実話」と呼ばれる分野の本を盛んにお書きになって、熱く読者に迎えられているわけなんですが、そういう現代の怪談作家の方が書いているものと、構造的には全く一緒なわけですね。つまり誰か体験した人のところに行って、聞き書きをする。さっきも控室で松村さんとあいさつしたときに、作家の宇佐美まことさんのお連れの方がそういう体験をされる方で、その話の取材を私なんかそっちのけでしておられましてですね、なんと仕事熱心な青年だろう、と思ったんですが(笑)。

現代の怪談実話をおやりになっている方は、そういう風に今起こっている怪異体験談、それを一生懸命に調査収集して作品にまとめていると。これは、言ってみれば民俗学のフィールドワークとあまり変わらないわけですね。学問としておやりになるか、エンターテイメントの読物としてそれをおやりになるか、あるいは文芸として怪談ものを書くか、アウトプットの違いだけでありまして、やっていらっしゃることは実は私などから見るとほぼ同じに見える。もちろん、民俗学の先生からいわせたら「それは違うよ」とおっしゃられるかも知れませんが、私のような門外漢から見るとその二つは大変似たような行為であり、少なくとも『遠野物語』という本の成立にあたって柳田國男と佐々木喜善の両者の関係というものは、明らかに喜善が地元遠野で、自分の肉親或いは親戚・近所の人から聞いた色んなお化け話を彼が集めて、柳田の前で披露して、それを柳田が記録したという、そういう構造で出来上がった本ではないのかなということなんですね。

これが柳田國男の「怪談の研究」という談話・インタビュー記事でございます。『遠野物語』は明治43年(1910年)の6月に刊行されているわけですが、こちらはその少し前、同年3月に『中学世界』という雑誌、つまり旧制中学の生徒さんを対象にした雑誌がありまして、そこに掲載された談話記事なんですね。その名も「怪談の研究」となっていて、しかも何が書いてあるかというと、ここに見出しとして「真偽の鑑定」という風に書いてありますが、柳田國男はこの談話の中で、自分は古今の怪談話を調査し読んできたと。だから自分は怪談の真贋——つまり本当か偽りか(嘘か)——真偽を鑑定することが自分は出来るんですよと、ここで豪語しているわけです。つまりそれくらい柳田は、色々な江戸時代の奇談随筆とか怪談本といわれるものを読み漁って、不思議な話・怖い話を色んな形で調査していたわけなんですね。

彼はなぜそんなことをしたかというと、怖い話が好きだったからというだけではなく、実は民俗学に後につながってゆくような日本人あるいは日本の民俗というものがどういう所から成り立っているのだろうかという、そのルーツをさかのぼっていく一つの手がかりとして、そういう不思議な話、まあ異界・あの世といってもいいと思うんですが、そういうものが日本人の精神生活にどのように関わっていたかということを彼は追求していた。天狗の話という言い方もしていますね。当時の柳田は天狗の先生といわれたりして、天狗の話を集めたりしている変わったエリート官僚がいるということで話題になったこともあって、一種の変人と思われていたのでしょうが……。怪談の嘘・本当という所に彼がこだわったのも、そこから民俗学という学問が始まる契機になったといってもいいんじゃないかと思うんです。(次号に続く)

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