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文化ジャーナル(平成24年11月号)

文化ジャーナル11月号

採録◎東雅夫講演会
遠野物語と怪談の時代(6)

2012年2月26日(日)  北島町立図書館・創世ホール(徳島) 2月26日に開催した東雅夫氏講演会「遠野物語と怪談の時代」は、約200名が県内外から集まり、熱気あふれる催しになりました。その講演採録を連載でお届けします。文責は全て小西昌幸(当時創世ホール館長、現町教委事務局長)にあります。(文中一部敬称略)/写真撮影=高橋和之


講演会の写真

で、怪談における何を彼〔柳田國男〕が「嘘」「本当」と言っているか。ちょっと原文から引用してみますと。??「怪談には二通りあると思う。話す人自身がこれは真個(ほんとう)の話だと思って話すのと、始めからこれは嘘と知りつつ話すのと此の二通りある」「前者は罪が浅いが、後者は嘘と知りつつ真個(ほんとう)らしく話すのだから罪が深い」「のみならず嘘を作った怪談は聞いても面白くない」??という風に、大変厳しく怪談の内容が本当か嘘かということについて異様にこだわるわけですね。なんでこだわるかといえばつまり、彼自身が怪談の中に秘められている、日本人特有の民俗性であるとか、精神性であるとか、そういう手がかりを重視していたから、この部分に非常にうるさかったんですね。だから作り話として色々アレンジして、怖がらせようとして語ったりするのはよくないんだと。本当にあったるがままを物語るのがいいんだよ、そういうようなことを、この「怪談の研究」という談話の中で盛んに力説していたわけであります。

で、実はこの「怪談の研究」という文章は『中学世界』に載ってから、西暦2000年になるまで全く封印されていたといいますか、忘れ去られていた。しかもこれは何で復刻されたかというと『怪』という妖怪専門雑誌なんです。水木しげるさんが会長である世界妖怪会議の機関誌として出されているあの『怪』で初めて復刻をされたという経緯があります。つまり民俗学の方では全くこの談話のことは無視されていたし、『定本柳田國男集』という全集がございますが、これにも実は入っていなかった。何でそうなってしまったかというと、これは私の憶測ですけど、柳田が『遠野物語』を出す直前にこういう談話が存在したことが明らかになってしまうと民俗学の分野では非常に都合が悪いのではないか。

なにしろ「怪談」という言葉自体がないんですね。これは実際に石井正己さんの研究書に書かれているのを見つけて大変びっくりしたのですけど、民俗学には「怪談」という用語は存在しないのでという一節が出てきまして(笑)。なるほどそのとおりで、民俗学の研究においては「民譚」とか、あるいは「民話」とか「フォークロア」という言い方はしますけど、確かに「怪談」という言葉は出て来ないんですね。ましてや「お化け話」というような言い方は学者さんは一切なさらない。さっきの色川大吉さんが岩本由輝(いわもとよしてる)さんの『もう一つの遠野物語』に対して、志が低いなどとおっしゃったように、怪談とかお化け話というものは、学問の対象ではないのだよ、というような妙な偏見??私は怪談専門誌の編集長ですので、その立場からすると「妙な偏見」に他ならない??としか言いようがない、そういう観念がずっとあったがために、佐々木喜善、水野葉舟、柳田國男の聞き取りによる、お化け会というものも非常に不当にうずもれた形で平成の時代まで来てしまったのではないか、と。

で、そんなようなことがございまして、私自身は怪談専門誌の編集長をやったり、それ以前から色々な形で怪奇幻想文学に関わった者として、前々からそこに疑問を持っておったわけです。その一つのきっかけになりましたのは、三島由紀夫が1970年に自決する直前に書き終えた『小説とは何か』という長編エッセイがございます。これは三島の最終的な文学論であり、文学的遺書といってもいいような内容なんですが、この『小説とは何か』という文章の中で柳田の『遠野物語』を取り上げているんですね。幽霊の話??お婆さんが亡くなって、家族の者が夜通し通夜をしていると玄関の方から亡くなった当のお婆さんが入ってきたと、それで消えてしまうという??ただそれだけのありふれたお化け話なんですが、三島由紀夫はこれに深く感銘を受けまして、何に感銘を受けたかといいますと、お婆さんの幽霊が入ってきたときにですね、炭取(すみとり)という囲炉裏端の丸い器がある。その炭取がお婆さんの着物の裾に触れてくるくるまわったよと。「くるくるとまわりたり」という『遠野物語』の記述がありまして、この描写に三島はいたく感銘を受けて「ここに小説があった」とまで言った。それこそが文学というものの神髄だよということを、『小説とは何か』というエッセイの中で力説しているわけですね。

この『小説とは何か』では、ほかにも国枝史郎の『神州纐纈城(しんしゅうこうけつじょう)』であるとか、稲垣足穂の『山ン本五郎左衛門只今退散仕(さんもとごろうざえもんただいまたいさんつかまつ)る』であるとか、いわゆる幻想文学の分野に属する作品というものを非常にたくさん取り上げて、その魅力を「小説とは何か」というテーマのひとつの題材として幻想文学の名作を取り上げて、熱くその由来を語っているわけであります。

私などその頃、ちょうど中学ぐらいでしたから大いに感銘を受けて、言ってみればその衝撃で『幻想文学』という雑誌をやったり『幽』をやったり、あるいは文芸評論をするようになったり、そもそものきっかけがそこにあったと言ってもいいぐらいだと思うんですが、その『小説とは何か』で三島が柳田の『遠野物語』を取り上げて書いていたというのが、私と『遠野物語』の出会いだったわけです。民俗学とまったく別の分野から『遠野物語』に私は入っておりましたので、そういう人間の目から見ると民俗学の先生方がお書きになる『遠野物語』の解説というものに、どこか割り切れない不審なものを感じておったわけですね。

実は2000年に『百物語の百怪』という本を私は出しました。百物語というものはご存じの方も多いと思うのですが、夜、集まった人々が百話の怪談をかわるがわる披露する。行燈(あんどん)の灯心を百本用意しておいて、それを1話語ると1本消して、だんだん暗くなって最後の百本目の灯心が消えると真っ暗闇になって本物の怪異が起こるという、今でも夏に納涼企画のひとつとしておこなわれている、そういう百物語の会というものがありますが、その歴史みたいなものを私、もの好きにも妙な経緯で研究するようになって書いた本です。

明治42年10月28日に『怪談會』という本が出ております。この本は大変歴史的に意義がある本なんですね。文字通り怪談会のドキュメンタリーでありまして、これは口絵ですけど、柳の木と雨と、まさに百物語が行なわれるにふさわしい情景が描かれていたりする。そこに代表者として泉鏡花が序文を書いております。

「傳(つた)ふる処(ところ)の怪異の書、多くは徳育のために、訓戒のために、寓意を談じて、勸懲(かんちょう)の資となすに過ぎず」……ちょっと難しい言い方をしておりますが、要するに怪異というものを道徳教育的な道具として使うのはいかんよと。そういうものは肝心のお化けたちはあずかり知らぬところであるよと。後半には「爰(ここ)に記すものは皆事實なりと。讀(よ)む人、其の走るもの汽車に似ず、飛ぶもの鳥に似ず、泳ぐもの魚に似ず」……そういう一種のお化け大好き宣言といいますか、怪談至上主義宣言というような文章が載っております。どういう人が参加しているかといいますと、日本の近代演劇の父と言われた小山内薫(おさないかおる)もいるし、もちろん水野葉舟(みずのようしゅう)も参加しています。日本画家として大変有名な鏑木清方(かぶらききよたか)もいます。女流作家・演劇人として著名な長谷川時雨(はせがわしぐれ)など、そうそうたる当時の作家、画家、演劇人、文化人たちが一堂に会して、鏡花の序文にあったようにそれぞれの人が「事実である」と断言して語った話をまとめたのがこの『怪談會』なわけです。で、この本、何が画期的かといいますと、つまり文化的に著名な方たちが「これは本当に起きた話ですよ」という前置きを語って怪異を記録した本が出ている、そういうことが重要だと思うわけです。

この本もその一例なんですが、実は明治30年ぐらいから日本の文壇を中心とした世界では、百物語というものが一種のブームといってもいいような状況になっていたわけです。年譜に書いておきましたが、例えば森_外の『百物語』という有名な短編小説があります。これは実際に東京の本所向島で催された百物語怪談会のときの見聞をもとに書かれた作品であります。

また、明治26年から27年にかけて、浅草で「やまと新聞」社主の條野採菊(じょうのさいぎく)が主催して、百物語怪談の会が行なわれたという記事が出てまいります。これは三遊亭円朝であるとか、尾上梅幸(おのえばいこう)であるとか、当時の噺家あるいは歌舞伎役者たちが参加したそうそうたる会でありまして、しかもその催された百物語が「やまと新聞」紙上に掲載されるということになります。まさに代表的な明治の文化人たちが語った怪談実話が新聞に掲載される。さらに明治27年にはそれが一冊の本になって『百物語』というタイトルで刊行されたりする。言ってみればマスコミがまとめ役になって文化人たちにお化け話をさせて、単行本にするというメディアミックス戦略のようなことが早くも起こっていた。しかも怪談、お化け話をテーマとして起こっていたということが大変興味深いと思うわけです。 (次号に続く)

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