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文化ジャーナル(平成24年12月号)

文化ジャーナル12月号

採録◎東雅夫講演会
遠野物語と怪談の時代(7)

2月26日に開催した東雅夫氏講演会「遠野物語と怪談の時代」は、約200名が県内外から集まり、熱気あふれる催しになりました。その講演採録を連載でお届けします。文責は全て小西昌幸(当時創世ホール館長、現町教委事務局長)にあります。(文中一部敬称略)/写真撮影=高橋和之


講演会の写真

この明治26年から27年という時期は、泉鏡花が上京して尾崎紅葉の門下生として入門したのが明治24年でありまして、鏡花が明治27年に「黒壁」という短い話を書いているんですが、実はこれが冒頭で百物語の話になっております。彼はその後も29年に「百物語」というこれも短い話を書いておりまして、どうやら百物語に異常に反応しています。後に鏡花はお化け好きの作家と呼ばれるようになりますが、もしかすると百物語とか怪談というものが文学の題材に出来るんだと鏡花が気づいたのは、この「やまと新聞」の『百物語』が一つのきっかけになっている可能性もあるのではないかなあと、時代的な背景に鑑みて思ったりいたします。その鏡花が後に文壇で名をなして、自分の親しい人たちと催したのが、この『怪談會』にまとめられる百物語の会なんですね。

実は鏡花は、この後もひんぱんに自分の知人たちと百物語を催すようになります。ちなみにこれは、当時の文芸雑誌の『新小説』という、鏡花がホームグラウンドにしていた雑誌なんですが、ここに「吉原新話」(明治44年)という作品を書いています。この「吉原新話」も、実際に東京の吉原ーー遊郭があった吉原でございますーーで、鏡花が催した怪談会にもとづく作品なのです。文化各界の名士が怪談会をやっていると、そこに妖しい老婆が突然乱入してきて、実はそれは死神のようなお化けなんですが、参会者たちを前に、如何にお化けの世界が偉いか、お前ら人間はだめだという、そう言ったことを滔々とまくしたてるという話ですけれども(笑)、「吉原新話」はまさに鏡花による百物語がそのまま小説になっている作品で、鏡花という人は、百物語で聞いた話を小説にするということをこの頃から何度もするようになります。

ちなみに『新小説』のこの号では、水野葉舟がやはり「怪談」というタイトルでエッセイを書いております。これがどういう内容かというと、面白いことにここで彼は、怪談を聞いて集めることについて語っていて、さっきの柳田の「怪談の研究」と非常によく似たことを言っている。怪談を研究するためには、怪談の嘘/本当というところを見極めなくてはならない。そして記録するためには、つとめて事実関係のようなものを分かりやすく書くのが大事ですよ、ということを、この「怪談」というエッセイの中で力説している。つまり当時の葉舟と柳田が、相通ずる方向性のもと、怪談探究に取り組んでいたことがこの内容からも分かるのではないかと思います。

この画像はさっきの「やまと新聞」掲載『百物語』です。2009年に国書刊行会から『幕末明治百物語』のタイトルで復刊されておりますので、興味のある方はこれをみると、明治初期の三遊亭円朝たちの百物語がどういうものだったか、よくお分かりになるのではないかと思います。

あと、『文藝倶楽部』という雑誌、これも当時の高名な文芸誌ですが、そこでですね、岡本綺堂という、後に演劇の世界で『修禅寺物語』などの代表作を生み、それから『青蛙堂鬼談(せいあどうきだん)』をはじめとしていわゆる怪談小説の名作を山のように残した偉大な怪談作家でもある。まあ世間的には『半七捕物帳』でおなじみですけれども。

その岡本綺堂も若い頃に『文藝倶楽部』で「妖怪譚」「日本妖怪実譚」と銘打たれた怪談実話のコラムを仲間の記者たちと連載していたりします。その辺もお配りした年表に書いてございますので、あとで読み直していただけたらと思います。

明治34年~35年、30年代半ばのことですけれども、『文藝倶楽部』でそういう連載があったりすると。つまり当時は明治初期、文明開化の頃に、古い迷信だとかお化け話だとか、そういうものは新時代にふさわしくないということで、どんどん排除されていった。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のようなこともあったりして、とにかくそういう古い信仰とか習慣とか風習は、どんどんやめて西洋的なものに変えようといったような極端な欧化思想に対するひとつのリバウンドが生じたのが、たぶん明治後期ーー30年代40年代ーーだと思うんですね。おそらくこうした文壇の人たちの怪談への狂熱というのも、文化的な揺り返しの時期ということと大きな関係があるのではないかと私は思っております。

で、ここからは鏡花を中心とする百物語ブームの話になるのですが、この「怪談の会と人」という、これは「都新聞」ーー今の「東京新聞」ーー四国の方にはちょっとなじみがないかも知れませんが、東京のローカル新聞で「東京新聞」というのがございますが、その前身が「都新聞」という名前でありまして、戦前は非常に東京の下町の人たち、特に花街とか芸者衆とかそういう粋筋の人たちの間でよく読まれていた新聞なんですけれども、その「都新聞」にこういう記事が載ったわけですね。

これは何かというと、最近ーーつまり明治末から大正にかけての時期ということになりますがーーよるとさわると怪談会が夏になると催されると、このタイトルに「怪談三人男」とあるわけですが、この三人男の中で特に最重要人物ーーVIPーーとして名前が挙がっているのが、泉鏡花であります。で鏡花のことを「妖怪(おばけ)の隊長」というような呼び方をしていて(笑)。つまり怪談会を彼が中心になって催す、そういう存在であるという風に当時の新聞でもこうして取り上げられるぐらい鏡花というのは、百物語怪談会に熱中していたんですね。

これが「都新聞」、この左のところに「怪談聞書」とあるんですが、こういう風に夏になって、作家たち、鏡花を中心とした作家や俳優たちが当時も実際に新聞の連載記事としてすぐに載るという、そういうことが恒例のように行なわれていたんですね。当時の洋画の記事や芸能記事とかに混ざって怪談記事が載るという、そういう時代だったわけです。

これは「怪談お祟り」って書いてありますね(笑)。つまり怪談会をすると、崇りが起こることがある。それはつまり、怖がらせるために趣向を過剰に凝らしてーー例えば百物語の会では、作りものの幽霊を立たせておいたりですとか、食事を饗するときに器を葬式の道具類に見立ててみたりとかーー凝った演出を当時するようになっていたんですが、あまりそういうふうに悪く演出を凝らすと祟りがあるということを鏡花はけっこう真面目に信じていたらしいんですね。

当時東京の京橋という中心部(中央区)に画博堂という画廊(ギャラリー)があった。そこで妖怪画の展覧会があった時に一つのイベントとしてですね、それこそ鏡花とか、岡本綺堂とか、谷崎潤一郎とか、有名作家や画家を招待した百物語の会があったんですね。その時に本物の怪異が起こったとされている。参加者の一人でかなり年輩の男の人がーー誰も素性をよく知らない人がーー一人混ざっていて、自分の話をいよいよしようとするんですが途中まで話が行くとですね、また最初に戻ってしまう。「これは私の家に伝わる、曰く因縁のある話なのですが」と話していって、途中で壊れたレコードのようにリピートしてなかなか本題に入らない(笑)。そのうちにーーここから先は本当のところはよく分かっていないんですけれどもーーその男の人が倒れてですね、亡くなってしまったとも言われていますし、病院に運ばれたとも言われている。そういう事件があった。これは亡くなったかどうかは分かりませんが、実際にそれに近いトラブルが画博堂の怪談会で起きたようなんですね。その場に鏡花も居合わせていて、それを目の当たりにしていたがために、鏡花はその後も怪談会は大好きなので熱心にやるんですけど、極力演出はしないであっさりやろうねと言っていたという(笑)。そういうちょっとユーモラスで不気味な逸話もあります。

これは怪談会の日の翌朝、新聞記者に写真を撮られた泉鏡花ですが、何となく茫然とした感じなのは一晩怪談を語り明かした翌朝だからでしょうか(笑)。ちなみにこれは井之頭公園という東京の郊外の吉祥寺の方に大きい公園があるんですが、そこにあった料亭を使って開催された際の写真で、鏡花は後にこの時の印象を「露萩(つゆはぎ)」というタイトルの哀れ深い短篇に、かなりリアルに書いております。ちなみに鏡花の一連の百物語関係の作品は、ちくま文庫の《文豪怪談傑作選》の『鏡花百物語集』というアンソロジーにまとめて収録しております。もし関心のある人はその本をごらんいただけましたら幸いです。 (次号に続く)

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