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文化ジャーナル(平成25年4月号)

文化ジャーナル4月号

コラム4題

今号は前館長の小西が某所で月2回連載しているコラムの再録を4本お届けします。いずれも創世ホールの催しに関連するもので、催しの前後に書いたものです(基本的には広報宣伝の意味合いを込めて催しの前)。アーカイブス資料として掲載します。(文中一部敬称略、文責=小西昌幸)


つのだたかしとスタジオゼロ

2012年11月11日、北島町創世ホールで国民文化祭の催し「ひょうたん島ギターコンクール」が行なわれた。大都市圏中心の音楽コンクールに地方から風穴を開ける、非常にユニークで意欲溢れる取り組みだった。主催団体・徳島ギター協会(川竹道夫会長)の奮闘に心から敬意を表したいと思う。

このコンクールの審査委員長を務めたのが、つのだたかしさん(リュート奏者、ギタリスト)だった。彼は、兄にトキワ荘通い組のマンガ家・つのだじろう、弟にドラマー&歌手・つのだ☆ひろを持つ、日本古楽界の草分けの一人だ。創世ホールとつのださんは非常になじみが深い。氏がリーダーを務める名門古楽グループ・タブラトゥーラで2回、波多野睦美さんとのデュオで1回、コンサートをしていただいている。

楽屋で「ごぶさたしております」とあいさつすると、「君にお土産を持ってきたよ」といって、つのださんから1冊の本を手渡された。

それが幸森軍也〔こうもりいくや〕『ゼロの肖像 「トキワ荘」から生まれたアニメ会社の物語』(講談社)だった。同書は、トキワ荘マンガ家たちが作った伝説のアニメ制作会社スタジオゼロの足跡をたどった貴重な記録だ。実はつのださんは、スタジオゼロで働いていた人なのだ。つのださんは1967年にドイツ留学をしておられるのだが、その前にスタジオゼロでアニメの仕事をして、留学資金をためたということは知る人ぞ知る。

私がトキワ荘通い組マンガ家の長谷〔ながたに〕邦夫さんと親しいことを知っているので、打ち上げの席ではだいたいその方面の雑談になり、突然「武居(俊樹)さんの本(『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』)は読んだかい?」と質問されたことがあった。そして「ドイツに行くとき、高井研一郎さんが餞別に腕時計をくださったんだ。それがこれなんだよ」と言って、数十年愛用の時計を見せてくれたこともある。赤塚不二夫と年末の宴会でプロレス・ショーを演じた話は抱腹絶倒だった。

『ゼロの肖像』には、つのださんも取材や写真提供で多くの協力をしておられる。プロレス・ショーでご本人が写った写真も、ちゃんと収録されている。日本マンガ史、アニメ史の空白を埋める重要文献の誕生を心から祝福したい。(2012年11月28日掲載)


福島の人・遠藤ミチロウ

2013年2月9日に北島町創世ホールでコンサートをする遠藤ミチロウ氏は福島県二本松市出身だ。出会いは32年前にもなる。その昔法政大学学生会館ホールのパンク系の催しが面白くて、上京時に足を運ぶことがあった。1981年5月に出かけたときに地引雄一さん(写真家、東京ロッカーズ関係者)と立ち話をしていたら「徳島って変なミニコミやっている人がいるんだよな」という声が聞こえた。声の主に「それは私のことですよ」といったら地引氏が「遠藤ミチロウ君だよ」と紹介してくれた。それが初対面だった。それ以前には氏のバンド、スターリンの自主制作ソノシートの徳島での委託販売を手伝ったことがあり、手紙のやり取りはあった。私は水玉消防団か何かの演奏を聞くためにホールに移動したので、初対面では会話らしい会話は出来なかった。

1982年8月、スターリンの徳島初ライブのとき楽屋でインタビューした。全国紙の支局記者も一緒だった。直前の九州ツアーで台風に遭遇、車が流されて大変な目にあった旨の苦労話を聞いた。遠藤氏が,自分達の活動は『試行』のように展開したいと述べるのを聞いて、この人はインテリだと感心したことだった。『試行』は吉本隆明が続けていた文芸思想誌で、スポンサーなしで自力発行を続けていた。遠藤氏は自主独立という姿勢に共感していたのだと思う。

縁というのは不思議なもので、この十数年遠藤ミチロウ氏の徳島でのコンサートのお世話をさせていただいている。大麻比古神社や鳴門市ドイツ館にもお連れした。ドイツ館で松江所長が会津の人で旧幕臣の系譜であることを知ると「会津はその後の西南戦争で西郷と戦うことになった。皮肉なもんですよ」とつぶやいていた。そして幕末の動乱の際、二本松では白虎隊どころか、もっと年下の少年隊が組織され、悲惨な最期を遂げたことなどを話してくれた。

昨(2012)年2月、深夜のファミリーレストランで2人きりの打ち上げをしたとき、脱原発派の中に、福島県人を「放射能に汚染されている」などと中傷する連中がいると嘆いていた。電力会社に金をもらって尻尾を振るご用学者は醜いが、福島の人を排除するような連中も情けない。我々は、どちらもぶっ飛ばそうと誓った。

還暦を過ぎても遠藤ミチロウの精神は不屈である。(2013年2月6日掲載)


小松崎茂と根本圭助

2012年2月に、挿絵画家の故小松崎茂氏(1915-2001)を顕彰する講演会を創世ホールで開催することになった。小松崎氏は戦後のSFイラストにおける第一人者だ。プラモデルの箱絵(パッケージ・アート)でも有名で、サンダーバードの勇壮なイラスト作品に胸を熱くした人も多いだろう。また若き日に晩年の海野十三に接して激励を受けた人でもある。

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小松崎氏には根本圭助という優れたお弟子さん(画家、文筆家)がおり、決定版評伝『異能の画家・小松崎茂』(93、光人社)は根本さんの著作である。講演会は根本さんを講師に小松崎氏の写真やイラスト作品を投影しながら、薫陶を受けた師匠との思い出や挿絵画家たちの世界を熱く語っていただくことになっている。

2012年9月29日に東京訪問し、「大伴昌司の大図解展」開催中の弥生美術館で根本さんと合流、打ち合わせをした。それを聞きつけたSF特撮研究家の池田憲章氏やSF挿絵画家研究の第一人者・大橋博之氏、同館学芸員の堀江あき子さんもやってきて、美術館前の喫茶店は実にカルトな集会場になったのだった。

根本さんは千葉県松戸市の人だ。同市には徳島出身の朗読家・森優子さんや、森さんと組んで優れた朗読芝居の脚本と演出を担当している鈴木之彦氏がおり、お2人は根本さんと親しい。信頼すべき最新情報によると、講演会には森さんと鈴木氏が千葉から手弁当で駆けつけて下さるという。森さんは場内アナウンス、鈴木さんは映像資料の作成とプロジェクター操作をするとまで言ってくださり(むろん謝礼なし)、私はただただ恐縮している次第だ。

根本さんから「岡山の小松崎ファンがマイクロバスを仕立てて徳島に行くと言っていますが、客席の余裕はありますか」と問われて私はひっくり返りそうになった。「立ち見で溢れるような催しこそ、企画者冥利に尽きるというものです。ぜひ満席(330席)になるぐらいおこし下さい」と私は胸を張って答えた。

晩年の小松崎茂氏は根本さんが書いた自分の評伝をしょっちゅう読み返し「君は俺のことを本当によく知っているなあ」と喜んでいたという。根本さんのような弟子を持った師匠は幸せだ。打ち合わせをしながら、私は深い感慨にとらわれたのだった。(2012年10月5日掲載)


挿絵画家・小松崎茂の生涯

2月24日に、挿絵画家・小松崎茂さんの生涯とその作品を顕彰する講演会(講師は高弟の根本圭助氏)を開催するので、資料読みに没頭している。

小松崎茂(1915-2001)は戦前から活躍していたから、非常に幅広い年代のファンを持つ。50代後半の私には、少年誌の巻頭口絵を飾った怪獣や未来社会を描いたSFイラスト、サンダーバードなどのプラモデルの箱絵(ボックス・アート)の画家として印象深い。もう少し上の年代で昭和30年前後の絵物語の大ブームを通過した方なら、山川惣治と並ぶ冒険活劇(『地球SOS』『大平原児』等)の作者として記憶しておられることだろう。あるいは、大和やゼロ戦などの戦記画の大家として評価する人も多いかもしれない。

徳島関連では、海野十三「怪星ガン」の挿絵を描いたことがあげられる。同作は海野最晩年の作品で、昭和23年1月号から24年3月号まで『冒険少年』に連載された(版元は日本正学館で、戸田城聖氏が社長を務め池田大作氏が編集に関わっていた)。

徳島出身の弟子もいた。勝浦明治さんという方で、残念ながら既に他界されている。55歳でお亡くなりになっていた。奥様はご健在で徳島市にお住まいなので、講演会には来ていただけることになっている。

根本圭助さんの著作『異能の画家・小松崎茂』(光人社)や『図説小松崎茂ワールド』(河出書房新社)を読むと、新鮮な発見が多く、刺激を受けた。修行時代に映画館の暗闇の中でスケッチをして勉強をしたこと、本田宗一郎氏からバイクのデザインの相談を受けたこと、貸本漫画時代に水木しげるが戦記物の表紙絵を依頼していたこと、等々。絵に没頭するあまりタバコの火で座布団がくすぶるようなこともあった。身体が大変丈夫だったので2001年に86歳で体調不良に陥った際にも病院に行くことを渋り、家族の頼みで根本さんが半日がかりで説得したのだそうだ。

入院から3週間後に他界。絵の神様に認められ、天に召されたのだと思う。生涯で戦艦大和をたくさん描いたが、最後の大和は沖縄戦に向けて出撃する後姿だった。(2013年2月21日掲載)

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