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文化ジャーナル(平成25年6月号)

文化ジャーナル6月号
コラム三題

今号は、小西が最近書いた海野十三に関するコラムを3本再録します。

海野十三の旗の下に

昨2012年5月27日、海野十三(うんのじゅうざ)忌イベントとして『SFマガジン』第二代編集長・森優(南山宏)さんの講演会「戦後SF第一世代の思い出」を開いた(創世ホール)。その結びは次のような感動的なものだった(以下引用)。

かつて石川喬司(たかし)さんは、福島正実さんを中心に突っ走っていた時代、SF界をひとつの惑星に例え、こんな風に見取り図を書いた。「星新一や矢野徹(てつ)がこの惑星へのルートを開拓し、福島正実が青写真を描き、小松左京が万能ブルドーザーで地ならしし、光瀬龍がヘリコプターで測量し、眉村卓が貨物列車で資財を運び、筒井康隆が口笛を吹きながらスポーツカーで乗りこ〔んだ〕……」。

これを小松左京さんが晩年の著書『SF魂』でさらに広げて「(近くに)漫画星雲の手塚治虫星系が発見され、半村良SF酒場開店、豊田有恒デパートが進出、平井和正教会が誕生、野田昌宏航空開業……」と加筆した。

私なら、ここに海野十三さんをさらに付け加えます。「海野十三の星が孤独に輝いて、未来のSF民族をそのSF惑星に導いてくれた」と。

徳島が生んだ偉大な日本SFの開拓者・海野十三は、1949(昭和24)年5月17日に51歳の生涯を閉じている。5月は海野忌の季節なのである。今年の海野忌は19日正午に徳島中央公園内で石碑の清掃をして、ささやかなセレモニーを行なう予定だ。

最近の海野十三をめぐるホットな動向としては福岡の黒田藩プレスという出版社から、英語版の海野作品集が刊行される予定だ。同社は、海外向けに日本の大衆文学(探偵、怪奇、SF作品)を翻訳紹介している版元であり、刊行の暁には海野作品初の英語版刊行となる。数か月前に肖像写真の件で相談があったので、確実に出ると思う。

また、5月24日午後7時から東新町の平岡ビル2階で開催される「阿波のミステリーを大いに語る」というトーク・ライブで、海野十三が取り上げられる予定だ。ミステリーメーカーの山口敏太郎氏と、私が話すことになっている。

来年の海野忌での講演会企画(乱歩と十三)も水面下で進行中だ。海野十三の旗を、私たちは徳島の地で掲げ続けなければならない。

海野十三を語る

日本SFの父、海野十三(うんのじゅうざ)は、徳島本町に生まれ、安宅町(1966年から安宅)の祖父の家で幼少期を過ごした。文学事典類で生まれが安宅町とあるのは間違いである。

県立文学書道館刊『海野十三短編集①三人の双生児』(ことのは文庫、2007)には《「三人の双生児」の故郷に帰る》という随筆が収録されている。これは非常に資料的価値の高い紀行文だ(初出は『シュピオ』昭和12年1月号)。自身が撮影した徳島本町の生家や、安宅町の家、四所神社など6点の写真を掲載し、故郷への思いを真情溢れる筆致で綴っているのだ。30年ぶりに徳島に戻り、四所(ししょ)神社や安宅町の家を訪ねた海野は「私の瞼には熱いものが湧いてきて、拭(ぬぐ)いても拭いても拭いきれなかった」とまで書き、境内で見た阿波鳴の人形芝居の思い出などについても万感こめて語っている。

海野の母校は福島小学校だ。彼は小学3年生のとき神戸に引っ越した。神戸は海野の第二の故郷であり、神戸文学館には海野のコーナーがある。早稲田に進学して以降は東京に住んだ。世田谷文学館にも海野のコーナーがある。

中編「三人の双生児」には「奥様の郷里は四国です。阿波の国は徳島というところに、安宅という小さな村があります」という会話が登場する。そのため研究者の間では、望郷小説として位置づけられている。安宅町の家は近年まで存在したが、取り壊され今は一般の住宅になっている。

海野十三は本名佐野昌一。明治30(1897)年12年26日に生まれた。日本SFの父、開祖と呼ばれる。『地球盗難』『火星兵団』『十八時の音楽浴』『浮かぶ飛行島』など作品多数。誠実な人柄で、終戦時には戦争責任を感じて一家心中を決意したが、異変に気づいた友人が懸命に説得し、果たさなかった。小松左京、手塚治虫、松本零士等、数多くの作家やマンガ家が、少年時代に海野の科学小説を読みふけった。第1世代と呼ばれるSF作家達に与えた影響は計り知れない。また江戸川乱歩、横溝正史、木々高太郎(きぎたかたろう)、小栗虫太郎(むしたろう)など数多くの探偵作家達と交流があった。

結核のため、昭和24(1949)年5月17日世田谷区若林の自宅で死去。51歳だった。全15巻の三一書房版『海野十三全集』(90~93)にその業績がまとめられている。海野の文学碑は2つあり、徳島中央公園にあるのは2代目。初代の碑は四所神社の道路をはさんだ向かい側、渭東コミュニティ・センターに移設され、故郷を見つめている。碑文には次のような2つの文章が刻まれている。

「海野十三は、徳島市の生んだ優れた推理小説家、科学小説家である。彼は科学者にして文学者という、稀なる資質に恵まれ、豊穣な作品によって推理小説界に重きをなした。彼はまた科学小説の先駆者であった。日本ではようやく流行の兆しを見せはじめたこの分野に、昭和初期、彼は早くも先鞭をつけ、多くのすぐれた作品を残したのである」(江戸川乱歩)

「全人類は、科学の恩恵に浴しつつも、同時にまた科学恐怖の夢に脅かされている。恩恵と迫害との二つの面を持つ科学、神と悪魔との反対面を兼ね備えている科学に、われわれはとりつかれている。かくのごとき科学時代に、科学小説がなくていいであろうか」(海野十三 昭和12年刊『地球盗難』より)

実はその後の研究成果等により、海野には『全集』未収録の作品が大量にあることが判明。あと5冊や6冊は軽く作品集を編むことができるといわれている。海野十三は、未(いま)だその全貌を見せていない巨大な山脈なのである。 海野十三と安宅町

「徳島新聞」の連載特集、移動編集局「徳島市 渭東・渭北・沖洲」に敬意を表して、海野十三(うんのじゅうざ)ネタを書いておこう。

海野十三の会会長の山下博之さんと「嘆かわしいことだ」とよくため息をついて話すのが、海野の「生まれた場所」を「徳島市安宅町1丁目28番地」としている誤った記述が未だにあること。少なくとも2つの文学事典でこの誤記を確認している。

原因は、はっきりしている。桃源社版『海野十三傑作集Ⅰ 深夜の市長』(昭和44年6月)の解説文1行目で書かれた誤った情報がずっと独り歩きしているのだ。正しくは、海野の生家は「徳島本町」であり、安宅町の方は育った家(幼少時を過ごした祖父渉〔わたる〕の家)なのである。この事実は海野自身がエッセイの中で何度も書いている。同書の解説執筆者は、その確認をせず断定してしまったのだ。

しかも解説文2行目には「幼くして父を失い、祖父渉に育てられた」と書き、ここでも誤記をしている。海野が神戸に引っ越すのは父が仕事で神戸に移ったからなのだし、そもそも海野の父は海野が成人しても存命だった。

桃源社版『深夜の市長』はその後も毎年のように装丁を変えて刊行されたので(最低3種類の異装版を確認)、すっかり海野が安宅町生まれというのが定着してしまった。

私は当該解説を貶めているのではない。それどころか、冒頭2行の2箇所の誤記を除けば、書影の図版も豊富で行き届いた作家論・作品論になっているのだ。そのことには敬意を表し、誤記を正すという姿勢が研究には大切なのだと考える。

海野十三の会では会報で何度もそのことを指摘し、山下会長も、ことのは文庫版『海野十三短編集(1)三人の双生児』(徳島県立文学書道館)解説で明解に触れている。

ところがその桃源社版傑作集が02年に沖積舎から復刻された。解説文もそのままに。出版社は「近年の研究成果により、海野の生まれた場所は安宅町ではなく徳島本町だったことが明らかになっています。また海野の父は幼少時には亡くなっていないことも明らかになっています」旨の補足説明を最終頁にでも載せておくべきだったと思う。このことは、活字の一人歩きの怖さについて改めて私たちに教えてくれている。

(全文執筆&文責=北島町教育委員会事務局長小西昌幸)

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