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文化ジャーナル(平成25年7月号)

文化ジャーナル7月号

山口昌男さんを偲ぶ

3月10日、文化人類学者の山口昌男さんが亡くなった。81歳だった。『ユリイカ』6月号で追悼特集が編まれた。重く深く、立派な内容で、ずっと手元に置いて読んでいる。

山口さんには2度お会いした。2回とも本にサインをいただいたので、年月日もすぐ分かる。始めてナマの山口さんを見たのは1998年9月19日、美馬町の武田智さん主催の野外イベント「燃えさかる西陽音楽祭in旧青木邸」の第6回。山口さんは原田英代さん(ピアニスト)、森村泰昌さん(美術家)と連続トークをした。私は鴨島の友人O君と出かけた。トークは全部で60分ぐらいだったと思うが、鮮烈で破天荒でとにかく面白かった。何しろ出だしからこんな感じ。「今回講演を引き受けたのはいいけれど、飛行機のチケットを何かの本にはさんだままにしてあったら分からなくなった。それで、武田さんに連絡しようと考え、番号案内に問い合わせて『徳島の武田さんという人の電話番号を調べて欲しい』といったら『たくさんありすぎてダメです』と言われた。これは困ったと、思案した。そうだ、森村泰昌さんも呼ばれていたと思いつき、出版社に森村さんの連絡先を教えてもらい、それでやっと武田さんと話ができて、ここに来れました」。客席は大爆笑で、みんな腹を抱えて転げまわっていた。

休憩時、O君と私は楽屋(青木邸の座敷)に行き、くつろいでいた山口さんにサインをねだった。私が持参したのは、NHK教育テレビ『人間大学・山口昌男/知の自由人たち』のテキストだった。同年3月に開いた種村季弘さんの講演会(澁澤龍彦と土方巽、創世ホール)の資料を差し上げたら、山口さんはニコニコと「この前ばったり種村さんと都内で出会って、お酒を飲んだんだ」とおっしゃった。私が『敗者の精神史』にしびれていることを伝えると「日本人は、近代百年で2度負けた。1度目は明治維新のときで、日本人の半分が負けた。次は第2次大戦で、全員が負けた。でも日本人は負け方が上手だったんだ」と、サラッと語った。頭のよい人だと思った。サインに私の名を書いて欲しいというと、快く応じて下さり、その上に似顔絵まで描いてくれたのだった。次にお会いしたのは、2002年8月の末、札幌大学学長室ギャラリーだった。

この北海道訪問は「伊福部昭卒寿記念祭」構想のためだった(04年2月、創世ホールで実現)。札幌駅で伊福部夫人の甥に当たる写真家・勇崎哲史氏と合流、市内を案内いただいた。そして札幌大学の山口昌男さんに引き合わされたのだ。山口さんは97年に札幌大学に招かれ、99年から学長になっていた。

真にラディカルな彼は、学長室の壁を撤去し「学長室ギャラリー」を作った。そこで展覧会やコンサートをし、大学を開かれた場所にしていったのだ。一部からは猛反対されたようだ。同ギャラリーで山口さんに『海野十三メモリアル・ブック』等を進呈した。山口さんは前年脳内出血で20日間入院、やや歩行困難になっていた。だが頭の回転速度は全く衰えておらず、当方の会話の2歩ぐらい先から返答がくるので、舌を巻いた。

大学地下の山口文庫も見学した。ここは山口さんの蔵書数万冊を収めていた。私は、岩田慶治+杉浦康平編『アジアの宇宙観』を発見し喜んだ。

私の知人の古書店さっぽろ萌黄(もえぎ)書店に出かける旨伝えると山口さんも同行を申し出た。車中「大半の学校幹部は思考硬直しているでしょうから、色々とやりにくいのではないですか」と問うと、山口さんは「硬直どころか、彼らは脳が爆発しているんだ」とあきらめ顔で笑った。

その夜、勇崎氏の計らいで山口さんを囲む食事会が催された。私の知人関係は勇崎氏、『アーサ』初代編集長北室和子氏、萌黄書店店長、「ウルトラQ」ファンのY青年、ハード・トゥ・ファインドの小松崎健(けんじ)氏が出席。山口さん関係は秘書の庄司智恵氏、造形作家真島直子氏、 飴細工師坂入尚文氏が出席した。98年の美馬町の話は実に受けた。

山口さんの個人誌『山口昌男山脈』には庄司秘書執筆の日記「山口先生のノマディックな日々」が連載されていた。後日、その3号に私のことが記録されていると萌黄書店の店長から知らされた。そこには《8月27日(火)16時 勇崎哲史氏が友人の徳島さんを連れてギャラリーへ》と記されていた。あの日の私は、徳島代表として札幌訪問していたのだと理解した。翌年春、山口さんは学長の座から降りることを余儀なくされた(推薦されなかった)。そして彼は東京に戻った。

山口昌男さんは『「敗者」の精神史』(岩波書店、95)で、21世紀に日本が生き残るためには本書で取り上げた人々を見習わなければならない、と誇り高く記した。幕末維新で敗残者とされた旧幕臣達が、趣味や文化の面で誠に豊かな水平型ネットワークを形成していた旨を実証し、彼は次のように言う。第二次大戦後「藩閥政府が作りあげたヒエラルヒーを温存するための組織を復活し、がむしゃらに突っ走り、破綻を来たしたのが今日の日本人の姿である」。だから頭を冷やして先人に学べ!

『知の自由人たち』(日本放送出版協会)も、優れた同系統の書物だ。ただ、ここに登場する光妙寺三郎(1847~1893)のみ例外で、長州の人だ。私は光妙寺を描いた文章に胸打たれた。

光妙寺は留学先のフランスで西園寺公望(さいおんじきんもち)と親友になる。西園寺は後に2回首相になる人で、光妙寺とパリで青春を謳歌した。2人はカフェ・アメリカンで知り合ったのだった。明治のバンカラ気質を炸裂させたのか、あるときボーイの態度に腹を立て「弁償すれば文句あるまい」と、2人で某酒場のガラスをことごとく割ったというエピソードが紹介されている。そして彼らは女性作家、ジュディエット・ゴーチェと深い文学的友情を結ぶ。

帰国後、光妙寺はキャリア官僚の道を歩み始めるが、再訪したパリの大使館に務めた後はどうも官職が長続きしない。そして46歳で他界。うわごとはフランス語だったという。山口さんは、光妙寺が落ちこぼれたのは当時の日本人として、水平型感覚をあまりに早く身につけてしまったからであろうと考察する。

その後西園寺は光妙寺の遺児を引き取って面倒をみた。そして後年、欧州訪問の折、20年ぶりに訪れたカフェ・アメリカンで光妙寺を偲び涙にくれて詩を詠(よ)んだという。

山口さんは次のように結んだ。「西園寺は、自分の中にある水平型感覚を押し殺すことで、日本社会に順応した。西園寺は、光妙寺三郎に少し引け目を感じていたのではないか」。没後百余年を経て、ここに光妙寺三郎は山口昌男という最高の理解者を得たのである。それは私には誠に美しく思われ、何故か涙が溢れてならない。慎んで山口昌男さんのご冥福を祈る。(文責=北島町教育委員会・小西昌幸)                               

後記◎この文章は私(小西)が某所で連載しているコラム3回分をまとめたものです。このところ、現在の職場との仕事量との絡みで、「文化ジャーナル」執筆の時間がとれず、再録原稿が多くなっております。お許しください。(小西)

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