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文化ジャーナル(平成25年9月号)

文化ジャーナル9月号
コラム三題

今号は、小西が最近某所に書いたコラムを3本再録します。
〔文責=北島町教育委員会事務局長・小西昌幸、文中一部敬称略〕

柴野拓美と同人誌『宇宙塵』

猛暑のお盆を過ごしていたとき、SF同人誌『宇宙塵(うちゅうじん)』204号が送られてきた。これが56年の歴史を刻んだ同誌の最終号である。丸ごと1冊を費やして主宰者だった柴野拓美(しばのたくみ)さん(1926‐2010)の業績を俯瞰している。背筋を伸ばし、正座しながら読んだ。

「柴野拓美と『宇宙塵』の時代」と題する座談会には東京創元社の名編集者・小浜徹也さん(藍住町出身)も登場し、柴野さんの仕事や人柄について語っている。

99年10月に柴野さんの講演会(日本SFを築いた人たち、創世ホール)を開いたことでご縁ができ、ずっと『宇宙塵』をご寄贈いただいた。講演会をきっかけに集めた数多くの宇宙塵関係書やSF資料が、我が家の書庫にある。全部お宝だ。

柴野さんは都立高校の数学教師を務めながら、57年に日本最初のSF同人誌『宇宙塵』を創刊した。創刊号から27号まで謄写印刷(ガリ版)で、以後タイプ印刷に移行。驚くべきは171号まで月刊体制を貫いたことだ。物凄いエネルギーである。星新一や光瀬龍や小松左京や眉村卓や平井和正や筒井康隆など第一世代の作家はもちろん、山田正紀や夢枕獏も『宇宙塵』に執筆した。日本SFの基礎を築いた空前の同人誌だった。

大塚製薬の重役だった川島裕造氏が、若い頃から川島ゆぞの筆名で同誌にSF作品(医学・薬学ネタ)を発表していたことは知る人ぞ知る。川島さんは最古参の『宇宙塵』同人の一人だったのだ。そして手塚治虫、長谷邦夫、石森章太郎などのマンガ家は『宇宙塵』を定期購読していた。

また1962年に目黒で開催された第1回日本SF大会は、紀田順一郎・大伴昌司両氏(共に慶応大ミステリ研出身)が柴野さんに接触したことをきっかけとして実現したのだ。

柴野さんには喘息の持病があった。お身体はじょうぶではなかったが、日本SF界を支え続けて83歳まで生きた。見事な生涯だったと思う。神奈川県二宮町のご自宅に一度おじゃましたこともある。私がオムライス好きなのを知っていて、駅近くのお店でごちそうして下さったのだった。

『宇宙塵』最終号によると、近く東京創元社から柴野さんの評論集が刊行されるらしい。楽しみだ。(20130820)

魅惑のSFアンソロジー

SF、怪奇幻想、探偵小説などのアンソロジー(複数作家短編集)が好きだ。あるときその重要性に気がつき、新刊をきちんとチェックするようになった。この種の出版物は比較的寿命が短いのだ。

最近のSF物では、大森望氏が編んだ『NOVA(ノヴァ)』シリーズ(河出文庫)が楽しめた。同叢書は2009年12月に第1集が出て、今年7月の10集で第1期を終えた。当然全て新刊で所有している。

一番泣けたのは3集(10年12月)収録の小川一水「ろーどそうるず」だった。近未来の人工知能搭載型オートバイが主人公で、物語はそのバイクと本部のホスト・コンピュータとの会話形式で進行する。ホスト・コンピュータはバイクから走行に関する報告を受け、その情報をもとに不具合対応や後継機種設計に反映する仕組みなのである。

主人公のオートバイはどこか人間くさく、持ち主が後部座席に女の子を乗せたといって喜んだりする。また彼は、将来はオートバイの博物館に保管されて余生を過ごしたいと、ホスト・コンピュータに夢を語る。当初、ホスト・コンピュータはそんな主人公を、欠陥品ではないかと判断していた。そんな両者だったが少しずつ、友情のようなものが芽生え始める。だが幸福は長く続かない。主人公は窃盗団によって東南アジアに売り飛ばされる。彼は、ミャンマーでバイク・タクシーとして無茶な改造を施され、過酷な日々を送ることになるのだ。持ち主は4人の子どもを抱えた運転手だ。そして政変が勃発。国は内戦状態になる。

銃弾飛び交う中、一家6人を乗せたバイクは懸命に走る。銃撃でラジエーターに穴が開き、それでもバイクは走る。持ち主一家を守るために―。彼はホスト・コンピュータに最後のメッセージを送る。記憶してくれ、俺は本物のオールラウンダーだった、と。

けなげな未来のバイクの生涯に、私は全く不覚にも落涙したのだった。これには、まいった。大森さんに伺ったところ、当該作品に泣いた人はけっこういたとの由。

『NOVA』シリーズでは、1集の田中啓文「ガラスの地球を救え!」、7集の片瀬二郎「サムライ・ポテト」が、それぞれ味わいは違うが、私には泣けた。アア、魅惑のSFアンソロジー!(0904)

関西パンク開拓者・林直人

関西パンク音楽シーンの開拓者の一人、林直人氏(歌手、ギタリスト)が亡くなって今年でちょうど10年になる。

彼は1979年、17歳のとき町田町蔵(後の作家・町田康)とINU(イヌ)を結成した。関西でパンク音楽を活性化させるためミニコミ『アウトサイダー』を発行し、コンサートを企画主催し、自主制作レーベル《アンバランス》を立ち上げた。同レーベルは後にアルケミー・レコードに発展、JOJO広重氏と組んで200点を超えるパンク、ニューウェイブ、ノイズ音楽等を発信した。非常階段、ほぶらきん、赤痢、インキャパシタンツ、イディオット・オクロック、北嶋建也など、強烈な個性のアーティストを擁していた。その音楽の愛好家は今も全世界に存在する。

INUを抜けた後、彼はアウシュヴィッツという恐ろしい名のバンドを作った。その音楽性は、バンド名と裏腹に、懐の深いロックの王道を行く豊かな詩情に溢れていた。林氏独特の艶やかな声質の歌唱は他にないものだった。満身創痍の戦士が「火のように朽ちてゆきたい、火のように果ててゆきたい」と繰り返す「フレイム」、どこから来てどこへ行くのかと自らに問いかける彷徨の歌「ドリーム・ウィズィン・ドリーム」の2曲は、彼らの音楽の到達点であり、日本ロック屈指の名曲と呼んでいいと思う。

大きな体、長髪にハルク・ホーガンを連想させるひげ面。しかし、話すととても温和でその落差にも驚かされた。ミニコミ取材で合計4時間以上のインタビューをしたが、若い頃から大変な読書家だったことを知った。何しろ小学6年の時に紀田順一郎・荒俣宏編集『幻想と怪奇』を定期購読していたのだ。幻想文学愛好歴は筋金入りで、アーサー・マッケンが愛読書だった。

2001年、のどのガンを発症し、闘病の末03年7月25日他界。42歳だった。遺骨は大阪四天王寺の納骨総祭塔(合祀碑)に納められている。亡くなる前年の秋、親友北嶋建也氏と徳島入りし、私の家に泊まった。三好市山城町のこなきじじい石像と鳴門市ドイツ館を案内し喜ばれた。

没後10年の節目にあたる今年9月、アウシュヴィッツのボックス・セットが友人達の尽力で実を結ぶことになっている。 (0807)

「AUSCHWITZ(アウシュヴィッツ)コンプリートBOX」は、4CD+1DVDの5枚組としてディスクユニオンの販売流通により9月18日発売。貴重な未発表音源と映像多数収録。本体7143円+税。アマゾン、HMV等のネット通販で入手可能。

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