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文化ジャーナル(平成26年5月号)

文化ジャーナル5月号

伊福部昭の音楽と精神

  • 今年は日本が生んだ偉大な音楽家・伊福部昭(いふくべあきら)の生誕百年にあたります。それを祝して、私が某媒体で3回連載した「伊福部昭の音楽と精神」を掲載します。初出はいずれも2013年12月です。整合性を持たせるために一部加筆削除しました(文責=北島町教育委員会事務局長・小西昌幸)
  • 2014年1月26日に徳島市文化センターで開催される「徳島交響楽団ニューイヤーコンサート」のチラシを貰った。第2部の1曲目が伊福部昭の「オーケストラとマリンバのための『ラウダ・コンチェルタータ』」となっている。これはなんとしても見に行かねばならない。徳島で20分を超える伊福部の純音楽作品が体験できるのだから。
  • この機会に、偉大な音楽家・伊福部昭の生涯と精神についてメモしておきたい。伊福部氏は真の巨人と呼ぶにふさわしい人なので、3回連載で考察を試みたい。
  • 最初に伊福部音楽を意識したのは、小学時代に見た映画「大魔神」の音楽だった。重く荒々しく、不気味な音楽は強烈に心に響いた。彼は生涯でたくさんの映画音楽を手がけた。300本を超えると言われている。「サンダカン八番娼館 望郷」「釈迦」「座頭市」シリーズなどのほか、「ゴジラ」「海底軍艦」「空の大怪獣ラドン」などの特撮映画音楽を生み出し、やがて熱狂的なファン層を獲得していった。本来のフィールドは純音楽の作曲家で、本県出身の三木稔氏を始め、黛敏郎、芥川也寸志、松村禎三、和田薫など優れた弟子を多く育てた。
  • 古い友人の木部与巴仁(きべよはに)氏が、伊福部氏に取材し『伊福部昭音楽家の誕生』(新潮社、1997)を書き下ろしたことで、大きなスケールと高い精神性に裏打ちされた生き方を知り衝撃を受けた。
  • 音楽は独学だった。音楽大学を出ていない。その分、業界特有のしがらみや因習にとらわれることなく、自由な精神を保つことが出来たのだと思う。北海道に生まれた伊福部は、札幌で過ごした十代の頃に生涯の親友となる早坂文雄(後の作曲家、「七人の侍」など)や三浦敦史(後の音楽評論家)と知り合い、切磋琢磨する。伊福部たちは当時新作が酷評されていた米国生まれのピアニスト、ジョージ・コープランドに励ましの書簡を送る。コープランドからは、「地球の裏側にいて私の音楽を理解してくれるのなら、音楽の勉強も相当しているはずだ。何か作品があるのではないか?」と返書が届く。それに対して送ったのが伊福部作曲の「日本組曲」だった。このとき、伊福部昭19歳。十代の頃から彼は世界に目を向けていたのだ。【2013年12月2日初出】

  • 伊福部昭氏(1914‐2006)は、21歳のとき国際コンクール・チェレプニン賞に「日本狂詩曲」で応募し1等賞を受賞する。その知らせは、北海道の雪深い場所で聞いた。彼は道庁森林官として働いていたのだ。独学で音楽を学んだ者が国際的な賞を受賞したことで、アカデミズム音楽業界は伊福部を嫉妬し、後々まで冷遇することになる。その後来日したチェレプニンが伊福部を励まし、北海道の両親に会い音楽家の道を歩むよう説得する誠に美しい逸話がある。このあたりは木部与巴仁氏の労作『伊福部昭・音楽家の誕生』(新潮社)に詳しい。
  • 伊福部は理論家だった。大著『管弦楽法』には各楽器の周波数特性が記述される等、実に科学的な内容だった。同書は今も読み継がれている。
  • 『音楽入門』も刺激的だ。真の芸術家は、自らの血(民族性)を深く見つめ、厳しく研鑽を積み、普遍的地平に到達するのだという議論が提出される。「真の音楽的教養とは、学びとった知識と影響を乗り越え、再び自己の肌色に立ち戻って、(略)思考し(略)鑑賞し(略)表現することに他ならない」「作家は(略)自己の語法と様式で語ることを恥じてはならない」。これはナショナルなものを見つめ、解体止揚しインターナショナル(世界基準)に到達するという思想だ。さらに進めて、人が己の課題を真剣に掘り下げ、努力することで、高みに達し、普遍的地平に到達することがあるという考えにも通じるのではないか。私はそう理解した。
  • 2004年2月に《伊福部昭先生卒寿記念祭》を北島町で開催するにあたり、私は伊福部氏に手紙を書いた。そこには、伊福部音楽思想から私は太宰文学を想起しましたと書いた。太宰治は個人的苦悩をつづったが、個を突き抜けて普遍的地平に到達したからこそ、永遠のスタンダードとなり若者に読み継がれているのだ、と。
  • 《卒寿記念祭》は、創世ホール史上空前の取り組みになった。初日に木部氏の講演会《伊福部昭・時代を超えた音楽》(生演奏付き)、翌日に野坂恵子さんの演奏会《伊福部昭の箏曲宇宙》を行ったのだ。チラシは4頁だて(!)、同時進行で2つの当日プログラムを作った。くたくたになったが、体中の細胞と心は躍動し、喜びに震えた。【2013年12月20日初出】

  • 日本近代文化史を眺めるとき、各界に長寿の巨人がいることが分かる。植物学者の牧野富太郎は94歳、『大漢和辞典』の諸橋轍次(もろはしてつじ)は99歳、『広文庫』の物集高量(もずめたかかず)は106歳までそれぞれ生きた。音楽界を考えたとき伊福部昭が浮かぶ。
  • 2004年2月の《伊福部昭先生卒寿記念祭》には、北海道や関東方面から泊り込みで参加する人達がいた。講演を担当した木部与巴仁(きべよはに)氏は自分のギャラでヴァイオリニストとピアニストを呼び、講演の中に生演奏を盛り込んだ。彼は、講演と同タイトルの本『伊福部昭・時代を超えた音楽』を書き下ろし、それを携えて徳島に来たのだった。箏曲演奏家の野坂惠子さんは、私の出演依頼状を持参し伊福部邸を訪問、北島公演の選曲を相談された。そして野坂さんの高弟の藤本玲さん(徳島市)と、沢井一門の遠藤綾子さん(石井町)が総力で催しを支えてくれた。2日間の催しには長女の伊福部玲、甥の東大教授・伊福部達夫妻、写真家の勇崎哲史といった諸氏が北島町に来た。
  • 同年11月22日、私は東京の津田ホールにいた。野坂さんの「伊福部昭作品によるリサイタル」にご招待いただいたのだ。休憩時間に木部氏と雑談していると「徳島の小西さんはいますか」と私を探す人がいる。木部氏が私を指差すと「伊福部先生がお会いしたいと申しています。こちらへ」とロビーの喫煙コーナーに連れて行かれた。そこに車椅子に乗った伊福部先生がいて「お世話になりまして」と礼を言われた。私は先生の手を握って「先生、諸橋さんや物集さんに負けずにうんと長生きして下さい」と言った。それ以外何が話せただろう。2006年2月8日、伊福部昭先生は91歳で天国に旅立った。
  • 伊福部先生は、戦後まもなく漱石門下の小宮豊隆から東京音楽学校(後の東京芸大)作曲科講師に招かれた。そこで黛敏郎や芥川也寸志や三木稔などを育てた。授業では「ブラームスは第一交響曲を24年かかって書き上げた。バラキエフは32年かかった。真の創作とは、このように息の長いものだ」と語った。これは師・チェレプニンが伝えた言葉でもあった。
  • 伊福部昭の音楽と精神は今も高くそびえている。【2013年12月21日初出】

伊福部昭の音楽史の表紙

書籍紹介★木部与巴仁『伊福部昭の音楽史』

  • ■木部与巴仁氏はこれまで『伊福部昭・音楽家の誕生』(新潮社、1997年4月)、『伊福部昭・タプカーラの彼方へ』(ボイジャー、2002年4月)、『伊福部昭・時代を超えた音楽』(本の風景社、2004年2月)と伊福部昭氏に関する著作を発表してきた。本書『伊福部昭の音楽史』は、先の3冊を踏まえた最終決定版である
  • ■北島町立図書館・創世ホールと木部氏の縁は深い。2004年2月28・29日の《伊福部昭先生卒寿記念祭》の1日目が木部氏の講演会「伊福部昭・時代を超えた音楽」だったのだ。木部氏は自分のギャラからヴァイオリン奏者(戸塚ふみ代さん)とピアノ奏者(木須康一氏)を雇い、2時間の講演の中に音楽の生演奏2曲(「盆踊」「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」)を盛り込むという画期的なことをやったのである。そして、木部氏は講演会に合わせて本(『伊福部昭・時代を超えた音楽』)を書き下ろす(北島町創世ホールのロビーで販売開始)というとんでもない離れ業まで実現してしまった。この種のことは、公共ホールと企画者(=小西)にとって奮い立つような出来事で、光栄この上ないことであり、いくら感謝してもしきれるものではない。私は木部与巴仁を応援してゆこうと固く心に決めた
  • ■きちんと計算したわけではないが、先の3冊の合計文字数を4百字詰め原稿用紙に換算すると、1500枚ぐらいになるのではないかと思う。木部氏にたずねると本書『伊福部昭の音楽史』は、4百字詰め原稿用紙換算8百枚超とのことである。徹底的に刈り込み再構築しているのである。『時代を超えた音楽』刊行2年後に伊福部先生は他界されたので、本書にはその記述もなされている。既に3冊を所有している人も、買っておくべきだろう。本書は初版1500部と聞く。日本文化の発展のためには、こういう書物が何度も増刷を重ねるぐらい売れなくてはならないのだと私は思う。そうでなくては(せめて万単位で流通しなくては)この国を「文化大国」などと恥ずかしくて到底言えるものではない。伊福部昭先生生誕百年の今年、伊福部音楽に少しでも関心を持つ人に本書を強く推薦したい(文責=小西昌幸)

◆木部与巴仁『伊福部昭の音楽史』春秋社、2014年4月25日初版第1刷発行、A5判ハードカバー・380頁。装釘挿画=小松史朗。本体3500円+税。

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