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文化ジャーナル(平成26年7月号)

文化ジャーナル7月号

2006年9月《北島天水ナイト》での坂田明さんの発言

★2014年7月16日(水)19時から北島町創世ホールで【坂田明グループ(サカタカタツサ)JAZZライヴin徳島】を開催します。それを記念して、坂田さんが初めて北島町に来た時(2006年9月)の発言録を再録します。この発言録は、ミニコミ誌『Gモダーン』27号(2007年6月、モダーン・ミュージック発行)に発表後、【坂田明trioジャズ・ライヴ・イン北島町】(2010年9月24日)の当日プログラムに再録したことがあります。芸術論表現論としてのみならず、哲学的にも深い内容であり、同時に日本ジャズ史における非常に重要な当事者の証言記録といってよいものです。より多くの方にお読みいただきたいと考え「文化ジャーナル」に再録する次第です。

【この発言録について】★2006年9月23日、北島町創世ホールで【北島天水ナイト~マンダラ+ジャズwith坂田明】を開催しました★第一部【サエキけんぞう◎ミニ・ライヴ】、第二部【坂田明トーク・ショー】、第三部【坂田明mii怒濤ライヴ】という構成で、最終的に四時間近いものになりました★坂田明さんのトーク・ショーでの発言は、戦後ジャズ史に関する貴重な証言でした。ここにその一部を掲載します。これらを引き出したのは、ひとえにサエキけんぞう氏の功績です。

【ジョン・コルトレーンのこと】

  • ジャズ研というものに入って、サックスばかり吹いていました。親の言うことを聞いて広島大学に入って、船乗りになろうと思っていたら、なんと「船乗りになるコースは今年から廃止しました」といわれた。それでゲシュタルト崩壊した。その崩壊を直すきっかけを与えてくれたのが、ジョン・コルトレーンという人だった。ただ価値観は崩壊してるんだけど、非常に前向きに明るいものだった。コルトレーンの1966年の広島公演を見に行った。コルトレーンは次の年に亡くなった。休みなしで2時間、コルトレーンは演奏した。
  • 会わなければいけないと思って、彼の楽屋に行った。怖かったけど、友達がサインを貰っていたので「俺も行かなきゃ」って思い、楽屋に行った。そしたらコルトレーンは頭にタオルをのっけて、まだブワ~ッて楽屋で吹いていた。その勢いに気おされて「こりゃ、いかん」と思って、そのまま出てきた。
  • 後から考えると彼は翌年死ぬわけです。肝臓ガンですよね。おそらく治療受けながら日本ツアーしていた。自分の人生の最後の、コツコツコツという(死の)足音が聞こえてくるから、生きているうちにしなくちゃいけないというのが、彼の中にあったんだと思う。それがそういう風にさせたんだ。あの音はそういう音ですよ。自分の求めるところに音楽で行きたいという凄まじい姿だった。(こういうものは)出会いですから、縁ですからね。〔*「このときにサックスの神様が坂田さんに乗り移ったのではないかと僕は受け止める」というサエキ氏の発言に対して〕勝手に思ってください。

    【阿部薫のこと】

    【山下洋輔トリオ】

    【モントルーでのハナモゲラ語の絶叫】

    (採録文責=小西昌幸)
    *初出『Gモダーン』27号(2007年6月、モダーン・ミュージック発行)所収《ハードスタッフ編集地下室》

      • 会社勤めしながらジャズ活動をしていた。渋谷にBYGという店があるが、阿部薫と吉沢元治がデュエットでやっていて、僕はそこに「一緒にやらせろ」って楽器を持って行った。「じゃあ、やれ」って言われて一緒にやった。で、薫は「いいじゃん」て言って。阿部薫に「俺、仕事するところがない」って言ったら「ついて来い」って、違う店に連れて行ってくれて紹介してくれた。それ以降、けっこう一緒に酒飲みに行ったりした。
      • 彼は暗くて破滅的で危ない、いい奴でした。いい奴なんだけど……。人は見かけだから。見かけの中に全部出ている。彼の生きてる生き様が見かけに全て出ている。追悼文に書いたけど、彼もまた自分の死の音を聞きながらサックスを吹いていたんだ。彼は、癲癇持ちだった。発作がだんだん短くなってきた。その最後は死だから。なおかつ、ハイミナール中毒だった。まことに危ないもので、それをのどに引っかけて死んじゃった。
      • コルトレーンもそうだけど、阿部薫の場合もどうにもならない。人間としてこれは勝てないという、こういう音は出ないという音がある。僕が、新人として東京に出てきて、一人だけ太刀打ちできない、こりゃダメだと思ったのが 阿部薫です。他の奴は作戦を何とか立てれば負かすことができると思った。音楽は若いときは一に勝ち負けですから。歳をとると一に人格、二に年輪、三、四がなくて五に勝ち負け。だから四の五の勝ち負けを言ってる奴は若造ですよ。勝ち負けを乗り越えて、三、四が何かといえばそれは分からないですよ。(略)
      • ミュージシャンって言う存在が基本的にまっとうかどうかはなんともいえないが、薫みたいな奴は二十八、九で死んじゃったから、三島由紀夫みたいなことであり、マリリン・モンローみたいなことであり、最近では中田英寿みたいなことであり、或る一つの美学だと思う。「そこで終焉である。おしまい!」って言う生き方。阿部薫の演奏は情け容赦ないですね。人生そのもの。これは怖いですよ。コルトレーンは四十代で死んでますからいいですけど、薫は二十八、九ですからね。その足りない年齢の分だけ先鋭的なまま、逝っちゃった。
      • これは個人的な印象ですが、コルトレーンは物凄く深いものを持った音色なんですよ。そこのところが違う気がします。惜しいですけど、人間というものはやりたいようにしか生きていけないですから。彼に「お前は惜しい人間だから、ちゃんとやってちゃんと生きろ」っていったって、それは出来ない。二十八、九で死ぬ生活しか出来ない。(我々は)それを見守るしか出来ない。
      • 例えばゴッホだってそうでしょ、モジリアーニだってそうです。誰もどうにも出来ない。じゃあ、なぜそうなるのかは誰にも分からない。分からないことについて後で我々は「惜しいな」とは思うけれども、それは後の話であって、本人が生きているときは誰も手出しは出来ない。(本人が)自分が求めて「何とかしてくれ」って言われたら、金を貸すぐらいはできるけど、他のことについては巻き込まれたくないと思う。彼らの生活というのは、とんでもない世界だから。
      • 僕は、とにかく人のやることに反対はしない。とりあえずウチワで扇(あお)ぐ。やりたいって言ってるんだから、扇げばいい。「扇げば尊し」ですよ。たいしたことのない奴はすぐ燃え尽きちゃう。(略)阿部薫は(坂田明という存在を)仲間として入れてくれたんだと思う。
      • 山下洋輔トリオから中村誠一が抜けたときに、後任の奏者を選ぶときに阿部薫か坂田明にするかで山下さんは悩んだ。(略)
      • 中村誠一はコルトレーン側、僕はどちらかというと阿部薫側なんだと思う。阿部はグループで音楽をすることを重視する人間ではなかった。彼は自分の世界をやるということを追求した。「彗星パルティータ」というレコードがありますけど、彗星のように、スーッと行ってしまうのが彼の人生ですよ。僕なんかは3人なら3人の仲間でやろうという気があるわけ。そこが山下さんにしたら、選択肢として、「グループとしては坂田の方が俺たちはやりやすいかな」ということで、決まったんだと思う。
      • ハナモゲラという言葉は僕がつくった。その前はハネモコシという言葉だったんですけど。タモリが出てきてハナモゲラが広まった。
      • モントルー・ジャズ・フェスティバルのこの日は、僕らとサン・ラーとセシル・テイラーで出演の順番がもめた。サン・ラーはオーケストラだから構成上、一番にやって、(その後の出演順で)僕等のマネージャーとセシル・テイラーのマネージャーでもめた。結局、サン・ラーが2時間やって大受けして、僕らが2時間やって大受けして、セシル・テイラーが2時間やって大受けしたっていう晩だった。
      • 人生の中でそういうド真ン中に出て勝負をかけるときに、なんだか知らないけどこういう歌が出た。僕もどうしてだか分からない。まあ《精霊のお告げ》のようなものですね。

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